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書評。物語はこんな宇宙#13: チェーホフ 「かもめ」前編

かもめ 著アントン・チェーホフ  訳浦雅春 岩波書店


(長くなりすぎたため、前後編で分けます。)

魔法と自覚

サーシャが住む村のはずれにある少し入り組んだ畦道の先に、透き通った池があった。少し外れたその場所には何か用がない限り、誰も足を運ばなかったが、その池のことを昔から知っていた。サーシャの住む村は、貧しかった。彼の父さんの時代にはまだ村に人を縛り付ける絶対の規則があったが、父さんが10歳の頃、村も隣の村も自由になった。だが、誰も自由になったことがなかったので、皆は戸惑い、村の人間は今ままで通り貧しい生活を送った。だが村の西側に住むアリョーシャは、文章を意味として読むことに成功した。この長々とした布告が指しているのは、人がどこへでも行け、何にでもなれるということであると、ある晩、冷えた夜道で気づいた。だが、アリョーシャはその時、喜びより寂しさを感じた。確実なものは、ここにはもうないのだ。そして夜明け前、決心したアリョーシャは、村を出ていき2度と戻らなかった。突然消えたアリョーシャに村の住民の誰もが不安を隠せなかった。ある薬草とりは、アリョーシャが池に向かうのを見たといい、彼の心を知らない村の住人は、村のはずれの、ある種の怪異や神秘に吸い込まれたと動揺し噂をした。


チェーホフについて

アントン・チェーホフは、1860年にロシア南部のタガンログで生まれた。1860年代は、世界史的に見ても変化が多い時代にあたり、日本では桜田門外ノ変、アメリカでは南北戦争も起こっている。そうした世界の情勢の中で、チェーホフの生まれたロシアでも農奴解放令が発布され、ロシア社会は大きな変化を迎えている。

 アントンの生家は、地元タガンログで雑貨屋を経営していたが、アントンが中学生の時、経営が破綻し、一家はモスクワに夜逃げする。(アントンのみ地元の中学校に通うため残った)。

地元に残ったアントンは、そんな環境の中でも学業に励み、中学卒業後、無事モスクワ大学医学部に入学する。しかし、生活は苦しく、彼は生活費を稼ぐために、ユーモア短編小説を雑誌に大量に寄稿する生活を送ることになる。それは医学生と作家を兼ねる忙しい生活であったに違いないが、それでもアントンは、大学を卒業し、医師になることができた。そして、この二重生活を終わらせず、医師としての診察に並行しユーモア短編作家としても引き続き活動することになる。だが、彼は生涯苦しむ結核にこのころ罹った。

そんな才能の浪費に対し歯痒く思ったのが文壇の長グリゴローヴィチだった。彼は、耐えられなくなったある日「君には素晴らしい才能があるから、真剣にやれ」と書かれた激励のラブレターをアントンに送りつけたと言われる。そして、その出来事は、アントンの作家人生の一つの転機となった。

そうして、奮起したアントンは、26歳の時に書いた「イワーノフ」で劇作家としての成功を手に入れる。また、彼は後世では劇作家アントン・チェーホフとしてあまりに有名だが、社会への関心の高い関心を持つ彼はサハリン島のルポータージュも書いたし、「犬を連れた奥様」といった短編小説なども引き続き書いている。医者でもあるので、その能力も活かし、社会的な慈善活動なども積極的に行っている。

しかし、精力的に活動をし、名声も手に入れたが、当時不治の病だった結核に冒された彼には時間が残っていなかった。そういった限られた中で、本作「かもめ」は書かれた。初演は実は失敗に終わっている。それも大失敗である。しかしその後モスクワ芸術座の再演により広く戯曲の価値が認められることになった。それ以降も戯曲は書き進められ「ワーニャおじさん」「三人姉妹」「桜の園」といった歴史に残る作品が生まれ、モスクワ芸術座の手によって世に出されることになる。そして最終作である「桜の園」の初演を見届け、アントンチェーホフは、44歳の若さでこの世を去った。


かもめについて

かもめは、四幕構成で、三幕と四幕の間で2年の月日が流れる。舞台は、ソーリン家(彼はアルカージナの兄でトレープレフの伯父にあたる)


一幕目あらすじ


湖畔の領地で作家志望の青年トレープレフが舞台を準備するシーンから、「かもめ」は始まる。劇で女優を務めるのは、彼の恋人であるニーナである。

観客として集まった中には、トレープレフの母親で大女優アルカージナ、彼女についてきた愛人で流行作家のトリゴーリンもいる。トレープレフは、そんな彼らの旧世代の芸術を許すことができず、その場で思いをぶつけるが、彼らは冷淡だ。

はじまった舞台は、当時の新しいスタイルである象徴主義の劇であるが、反応は肩透かしに終わり、彼は、途中で劇を打ち切る。失望したトレープレフは姿を消し、ニーナはトリゴーリンたちに挨拶をする。ニーナはトリゴーリンの大ファンである。

場が解散した後、戻ってきたトレープレフは、残っている医者であるドールンから創作を続けるよう励まされるが、ニーナが家に帰っていることにショックを受ける。

一幕目について


トレープレフの失敗。そしてニーナとトリゴーリンの対面。ドルーンが慰めてくれたことは、救いだが、ニーナはいない。
同業種の親に認められたいというのは、共感できるものだし、子供が親世代がやってきたこと、やっていることを古めかしいと批判するのも同様である。

ここで一つ取り上げたいのは、劇の中で劇をやるということだ。

今からいうことは、全ての劇中劇に当てはまることではないが、中にはこういうものもあると思って聞いてほしい。

私たちは、普段面白い映画を見ていると、無我夢中でストーリーにのめり込み、キャラクターに共感する制作側も、観客のこの幸せな状態を作り出すことを目指し、日々作品を考えている。この前提は疑いようのないものに思える。

ただ、創作者の中には、作品と観客が一体化するこの神聖な行為を認めず、逆にそれは観客が主体性をなくし、作品をその場で消費して終わるだけだと批判するものもいる。

つまりは、いくら作品で社会的なことを言おうが、何かを訴えようとも、観客は物語にその場でスッキリすると、すぐに物語を忘れ、いつもの日常に戻ってしまう。この意見は胸に刺さるものである。私も映画館で何かを感じたりしても、忘れてしまうそんな人間だからだ。

そのため、劇作家の中には、あえて劇の中で、劇が作りものであると夢中になった観客に気付かせようとする。舞台装置、格好、ストーリーの進行あらゆる手段をとる。突然脈絡なく歌い出す、観客に喋り出す。それを見ると観客は、はっと、これは劇だと現実にかえる。酔い覚ましに近い。

もちろん、このチェーホフの劇も含め劇中劇の全てが当然この効果を狙ったものではない。ただ思うのである。劇を見ていたと思ったら、その劇でまた劇をやっている、それは観客にとって不思議な体験であることには違いない。

また、この演劇は、登場人物からも辛口評価をくらうが、チェーホフ自身もこういった象徴劇のスタイルがあまり好きではなかった。これを当時見た人間は、このシーンを見た時、当時の現実の演劇批評を見たのではないかと思うのである。


二幕目あらすじ


登場人物たちが、屋外で話をしている。アルカージナは、管理人のシャムラーエフと口論になる。それ以外でも管理人の妻ポリーナがドルーンに言い寄ったり、アルカージナの兄ソリーンの健康状態の話になるなど、わちゃわちゃしている。

そうこうして場は落ち着き、トレープレフが、一人になったニーナのもとにやってくる。手には猟銃と撃ち落とした、かもめ。ニーナの足元にかもめが置かれる。やがて僕も自分を撃ち落とすんだと彼はいう。トレープレフは、芝居の失敗に怒り、トリゴーリンがやってくるのを見ると一人立ち去る。

やってきたトリゴーリンに対しニーナは、その才能を褒め称える。しかしトリゴーリンは、ひたすら書き続けないとならない現実を嘆き、作家生活の過酷さをニーナにグチる。それでもニーナは、自分が作家や女優になれたら、なんて素晴らしいことかと告げる。足元のかもめに気がついたトリゴーリンが、そこからインスピレーションを得る。「若い娘が、湖でかもめのように幸せに自由に暮らしていたが、そこに男がやってきて娘を破滅させる」

二幕目について


最初の会話のシーンは、とてもコミカルで特にシャムラーエフは若干狂っているが冗談みたいなキャラクターであって、かもめの要所要所で存在感を発揮する。

そして、そのパートが終わると、失意のトレープレフがやってきて、題名でもある「かもめ」をニーナの足下におく。かもめは、西洋では海と航海を象徴する鳥であり、むやみに殺すと不吉なことが起こる(https://www.suntory.co.jp/eco/birds/encyclopedia/detail/1404.html)。

そして、彼は銃でむやみに殺している。そして自分の将来に関する予言をする。芝居上で、宣言をしても、全てが成就することはないが
それでも絶対的に何らかの意味がある。そしてこのかもめにおいても意味はある。

トリゴーリンのくだりは、一般に共感を得れるものである。成功した芸術家や作家を見て、それを目指す者が強く憧れる。そう言った作品を生み出す人間の生活や信念もきっと素晴らしいもので、光の中で生きていると彼らは思う。だが、トリゴーリンからすると、確かに苦労して成功したが、それはそれであり、今は書き続けるドライな生活者としての感情を持っている。そして最後のトリゴーリンのインスピレーションのくだりも、さっき言った芝居における宣言に入るだろう。

下記リンクから、後編に続きます。
https://note.com/gurisan/n/na9ead37e51ed

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