喋り出すと止まらない家族たち
昔、うちの母と兄は喋り出すと止まらない人たちだった。
今考えると、母のはおそらくADHDの特性だったのだと思う。
母は基本キャッチボールのできない人で、ずっと自分のターンで話す。
自分の趣味のこと、毛糸、手芸、バレーボール、人形等々、についてをよく私に一方的に30分とか話していた。
小学校高学年から、中学校あたりはよくつかまってしまい、他のことをやりたいので、会話を切りあげたいのだけれど、でも当時、他人に対して自分の気持ちや意見を言うということに許可が降りていなかった私は、どう言って切ればいいのかがわからず、ずっとタイミングを見計らいながら、それでも切り出せず30分とか話を聞かされた。
ちなみに、母に相手の状況察したり、考えたりして、話すのをやめたり、切り上げるという能力はない。それは今だに若干そうで、朝の超バタバタしていて、遅刻する!!という状況の時に、自分が見ている韓国ドラマの話などを普通に話しかけてくる。玄関の前でもう出かけると言う時も、話しかけてくる。重要な話とか私と共通性のある話ではなく、自分の話したい話しをしてくることが多い。
これは、母が私と自分を同一化してみているせいもあるのだと、私は思っている。自分がやっていること、知っていること、興味があることを、自分が自分に話すかのように聞いてくれる娘という感じなのだろう。
他者は自分と別の状況下で生きているという認識がいまいち薄いので、私が朝、仕事に行くのに忙しいということ察せられず、考慮に入らないのだ。
今は、私は母の話をあまり聞かないようにしている。
なぜなら、母の話を興味を持って聞いてしまうと、例えば韓国ドラマであるならば、見てもいないのに内容を把握してしまい、それにより、母の喋りたいことに応対できるくらいの能力がついてしまい、母の話が余計に止まらなくなってしまうからである。
また、見てもいないのに、内容を把握しても、私が誰かと熱く語り合えるわけではない。本当に母の話を適当に受けるという目的にしか役に立たない。かと言って私の話を母が同じように聞いてくれるわけではない。私に何も残らない。時間だけ持ってかれる感じなのだ。
さらに万が一、興味を持ってそのTVドラマを見たりしてしまうと母子カプセルがどんどん強化されるだけである。私は私が本当にやりたいと思うことをやった方がいいのだと今は思っている。
これは子供の頃に母のおしゃべりによって与えられた知識があまり役に立たなかったという経験に基づく。
子供の頃から母のおしゃべりを聞いていたので、母の好きなジャンルの薄い知識がついていた。
そして、それ以外のものに触れる機会があまりなかったので、自分もそれが好きなのではと思い込んでいた。
でも、大人になり、その知識で、友達が作れるかというと無理なのだ。そのジャンルに自分でハマったわけでもない、能動的にやるわけでもない、知ってる知識も母の好きなものに偏っている、他にできることがなかったからそれをやってた、そんな状態では、本当にそのジャンルが好きな人たちが話す中には入っていけなかった。
母であればおそらく入っていけるのだろう。でも私は話を受けられる程度の知識でしかなく、また情熱というか、それが好きであるというパッションがないのだ。それをやることでワクワクしないのだ。好きな人たち会話のテンションにそんな『にわか』の人間がついていけるわけはなかった。
母は自分でそういう人たちの中に入っていけばいいのだが、『ぐり(私)からいいね!もらればそれでいい』と恐ろしいことを言って、外に関係性を作ろうとしない。
それを聞いて、さらに話を聞くのをやめたところもある。
兄の会話の仕方
兄は母のコミュニケーションの取り方を見ていたからそうなったのだと思うが、中学、高校くらいのときは母と全く同じ話し方をしていた。軍事関係、車、電車の話を30分くらいずっと俺のターンでする。捕まると長かった。当時は本当にやめて欲しいと思っていたし、どうやって切り上げようかずっと考えていた。
この家の中で普通の会話を学ぶことは難しいので今はしょうがなかったなと思っている。
兄は、その後ラジオが好きでハマったことと大学で入ったサークルでたくさん友達ができ、あと社会人になったことで、最近は普通に話ができるようになっている。いまはちゃんとこっちの話も聞いてくれる。私の話を聞いてくれる貴重な人物である。
父の会話の仕方
父もいるのだが、父もキャッチボールの会話はできない人だった。
基本的に雑談というものはできない。喋り出すと、授業になる。
感情が共なうような、日常に関する会話はほぼせず、知識を披露するという会話の仕方だった。
そして、小4から高校2年まで父はほぼ家にいない人だった。一緒に住んではいるが、定時制高校勤務で生活パターンが違ったため合わなかった3年間と、東京都教育委員会という超ブラック職場に飛ばされたため朝の6時から夜遅くまで仕事でいなかった4年間、家族の生活の中に父はほとんど存在していなかった。
いなかったが、いてもいなくても父は人の話を聞ける人ではないし、基本的に人に興味が非常に薄い(ASDだと思う)ので、母と兄の喋りたい欲求は私に向かったのだろう。
自分の話をすると喰われてしまう
私の話は誰も聞いてくれないのだけれど、うっかり私の話をしてしまうと、昔は母に会話を喰われることがあった。
どういうことかというと、例えば「今日、給食がカレーうどんだったんだけどさ」と話しかけると、「カレーといえばね、今日、お母さん間違えてカレー粉2個買ってきちゃって、家にも2個あったのよ」とこちらの話の途中でも話し出すか、私が話をすべて話し終わった後に、「そうだったの」などという受け取りの会話をせずに、いきなり単語だけに反応した前述のような話題で切り返してくる。会話の中に含まれる単語を聞いたことによって思い出された自分の話したいこと話したいという衝動が抑えられずにを話し始めてしまうのだ。
こちらは受け取ってもらった感じもないし、(というか最後まで話してすらいない)それによって一方的トークがスタートしてしまい、満たされない感じしかなかった。
学生の頃はそれをやられても何と言ったらいいのかわからず、話を聞くしかなかった。
母や兄と話すということは、私にとってはストレスでしかなく、ただただ、自分の時間を持っていかれる行為だった。
お説教の時も
そして、この一方的に延々と30分近く話すという行為は、お説教のときにも起きた。
母のお説教は本当に長かった。だいたい30分以上正座をして話を聞かされた。私が泣きすぎて過呼吸になり、それでやっと止まることもよくあった。
でも過呼吸になっても、「早く治しなさい、やめなさい」と過呼吸発作を自分で治すことを求められ怒られた。過呼吸発作は自力では治せない。(母、看護師なんだけどな)
家族内で会話ができなかったことの弊害
これは私がおそらく軽く発達障害があるであろうことも影響していると思うが、家の中の会話がこんな状態であったため、会話の方法を学ぶことができず、社会に出てから人との会話の仕方がわからなく非常に苦労することとなる。
元々あまりコミュニケーションが上手くない上、TVが見れなかったため、TVなどで人の会話を聞く環境にもなく、一方的に話すか、話を途中で喰ってしまうような会話の仕方をする中にいたので、私の会話の仕方もおかしくなっていた。
昔は友達との会話なども、父の話し方が写り、気持ちや感情を受け取り合うことではなく、知識で会話をしたり、解決策を一方的に教えたりすることがあり、すごく微妙な空気が漂った。
また、23歳で販売の仕事をしていた際に、私はお客様ともスタッフとも上手く会話をすることができず、ある時、私は話し方が何かおかしいということに唐突に気がつき、そして腑に落ちることになる。
ただ、「何かおかしい」ということには気づきはしたが、「どう変えたらいいのか」「なにが正解なのか」がまったくわからなかった。
わからないなりに、傾聴について勉強したり、アーサーティブコミュニケーションについて勉強したりして、会話術を、勉強とトライ&エラーで身につけて今に至る。本に書いてある内容を、とにかく、不自然であろうとも、実際の会話で実践し、調整してという作業を繰り返した。
だから、私の会話術は、後付けな、書籍から無理やり構築したものである。
その後の家族との会話
家族の会話はその後、20代後半に私が実家に戻った際、まず、朝なり、誰か家に帰ってきたときに、私がこちらから挨拶をする、というところから直していった。(その時は「おはよう」も「ただいま」も誰も言っていなかった)
母の話し方も、一方的に話し始めたら止めて、会話のキャッチボールをして欲しいとお願いをし、こちらの話を途中で喰われてしまった時は、ちゃんと最後まで話しを聞いて欲しいと頼んだ。
それと同時に、子供の頃そのような会話の仕方をされてとても嫌だったし辛かったし悲しかったということも伝えた。
母はその当時すでに発達支援センターの仕事をしていたこともあり、だんだん会話の順番を待つとか、会話を受け止めるとか、多少相手の状況を考えるとかしてくれるようになっていった。ADHD的な要素が全部なくなるのは無理だと思うけれど、でも以前より会話が普通にできるようになったし、話を聞いてくれるようにもなった。
兄は前述した通り、普通に会話ができるようになっていたし、結婚して子供ができてからさらに変わった。
今私は、人と話すのは得意ではないし、自信もないけれど、家の中は子供の頃に比べれば、格段によくなったので良かったと思う。