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ぐん税ニュースレター vol.25 page04 -渋沢栄一から学ぶビジネススキル 第3部-

第1部

第2部


論語と合本主義

渋沢の功績を語るうえではずせないのが「論語」です。渋沢の思想は「論語」に強く影響を受けていますが、実業家時代はそれがより色濃くでています。「論語」にでてくる「君子は義に喩り、小人は利に喩る」という言葉の、義=公共の利益、利=個人の利益、と解釈した渋沢は「公益を重視し個人の利益は後」という考えを実践してきました。これは渋沢の母が実践していた「皆が幸せであること」と重なりますが、こうした母の教えがあったからこそ渋沢にとって「論語」はより馴染み深いものになっていたのではないでしょうか。
また「日本資本主義の父」と言われる渋沢ですが、実は本人は合本主義という言葉を使っています。静岡藩で商法会所を立ち上げた際に用いた共力合本法です。合本主義とは「公益を追求するという使命や目的を達成するのに最も適した人材と資本を集め、事業を推進させるという考え方」です。渋沢は「もし人材がみな官界に集まり、働きのない者ばかりが民業にたずさわるとしたら、どうして一国の健全な発達が望めましょう」とも述べています。リソースを一極集中させた利益追求では健全な発展にはならない、ということです。
こうした考えから国民全体の利益のために銀行の設立から着手したのかもしれません。しかし当時は株式会社の理解だけでなく銀行の役割も理解されていませんでした。そこで渋沢は簡単な表現で銀行の役割を説明するだけでなく意識改革までを促す広告文を考えました。
「そもそも銀行は大きな川のようなものだ。役に立つことは限りない。しかしまだ銀行に集まってこないうちの金は、溝に溜っている水やぽたぽた垂れているシズクと変わりない。(中略)銀行を立てて上手にその流れ道を開くと蔵やふところにあった金がより集まり、大変多額の資金となるから、そのおかげで貿易も繁昌するし、産物も増えるし、工業も発達するし、学問も進歩するし、道路も改良されるし、すべての状態が生れ変わったようになる。(後略)」
これまで多くの人間の心を突き動かしてきた渋沢らしい伝える力です。そしてかつて商人が金に物を言わせて相手の尊厳を傷つけ、貧しい者が金のために道徳から逸脱する光景を見てきた渋沢は「社会正義のための道徳」と「生産利殖」は相反するものではなく、両立できると考え「道徳経済合一説」を唱えてきました。そのため渋沢は銀行の公開性と透明性にもこだわりました。

加速する事業

第一国立銀行 / 出典:国立国会図書館「写真の中の明治・大正」

明治6年、渋沢が日本で初めての銀行、第一国立銀行(のちのみずほ銀行)を設立すると全国に合本組織の銀行が誕生し地方の経済も活性していきます。同時に渋沢の元には続々と銀行を設立したいという相談がくるようになります。なかでも旧藩時代の家老が紋付羽織で現れた際には「時代は変わったのだから心を入れ替えないといけない。紋付羽織で銀行経営はできな」と意識改革から促したそうです。なぜそうする必要があるのか、という理由を渋沢は丁寧に指導しました。これまで多くの猛者と対話をしてきた渋沢は一方的に押し付けるような説明では自主的な行動は促せないことを理解していたのでしょう。
西欧で金融を学んだ渋沢は株式交換所で証券類の取引を行うことで国が発展していくと考えていました。しかし大蔵省にいた大隈に相談するも省内の反対で事は進みませんでした。特に反対したのは、のちに初代大審院長を務める玉乃世履(たまのよふみ)です。「証券は博打だ」という玉乃と「その考えは国家の発展を妨げる」という渋沢の意見は平行線を辿ります。ですがその約1年後、玉乃はフランスから来日していた法律顧問のボアソナードに渋沢と同じ意見を言われて諭されます。すると玉乃は渋沢に素直に謝罪をし、明治11年に東京株式取引所が開かれることになりました。
渋沢は銀行設立と同時期に抄紙会社(のちの王子製紙と日本製紙)を立ち上げます。紙幣の印刷のためでもありますが文明開化一色の当時において、学問や芸術を振興させるために図書、新聞、雑誌などの出版業を盛んにし、それが文化・文明の発展に繋がると考えました。明治初期にメディアの重要性にも気付いていた渋沢。ここにも先見の明があったと言えるでしょう。しかし資金が中々集まらず事業はうまく進みません。先述のとおり株式会社自体への周囲の理解がまだ足りないこともありますが、これまで政府主導の為替会社や商社がうまくいかなかったことによる警戒感も要因でした。手詰まりの渋沢は自らが開設した第一国立銀行から借り入れをしたり、自身で株式を購入したりするなどして資金を調達しました。そして製品となる紙の仕上がりにも苦戦します。欧米から雇った技術者のレベルが低いためでしたが、渋沢は妥協せずに指導を続け機械導入後から数カ月経ったのちようやく満足ができる紙が出来上がったといいます。

犬猿の仲 岩崎弥太郎

岩崎弥太郎 / 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

ある日渋沢の元に正反対の考えを持つ岩崎弥太郎が現れます。考え方がまるで違うことを理解していた渋沢は大蔵省時代から岩崎とは距離をとっていました。「官民の隔たりを撤廃し人材と資本を集めて公益を追求する」という合本主義のもと事業を推進する渋沢。一方で岩崎は「人数が増えれば意見がぶつかり事業は進まないので経営手腕のある者が一人で行うべき」という独占的な考えを持っていました。実際、当時の海運業は岩崎の郵便汽船三菱会社によってほぼ独占されています。渋沢も経営者の手腕については必要性を認めますが経営者が事業や利益を独占し続けるのは間違いだ、と岩崎に意見すると、それは理想にすぎない、と話しが交わることはありません。ですが岩崎も渋沢の手腕は買っているのでビジネスパートナーとして事業を進めることを持ち掛けました。しかし全く異なる考え方を持つ二人は口論の末、交渉決裂となります。渋沢のすごいところはこれだけの口論をした相手が独占している海運業に乗り出すことです。国益のためなら使命を果たすのが渋沢のスタイルです。井上馨と協力し三井財閥を中心に共同運輸会社を設立します。その後約2年間はダンピング競争による消耗戦が続きますが、岩崎弥太郎の死後、両者は合併し日本郵船が創立されます。

渋沢栄一の功績

渋沢栄一 / 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

幕末や維新の立役者と聞くと刀で時代を切り開き、殺伐とした命のやり取りを想像してしまいますが渋沢は知識と見分で時代を切り開きました。論語の教えのもと社会全体に利益をもたらすことを目指し生涯で500以上の企業の設立や運営に携わりました。そして実業家時代から引退後まで養育施設、病院、学校などの設立にも尽力し、600以上の社会福祉事業や教育に関わりました。晩年は国際親善にも取り組み、悪化する日米関係を改善するために日本国際児童親善会を創立しました。
渋沢のこうした功績が現在に至るまでの日本経済を支えてきたことは間違いありませんが、本文の太字で示したように随所で現在でも通用するようなビジネススキルを発揮しています。当時を考えれば抜きんでた才能と言えますが現在においても学ぶべき点が多いです。その意味において渋沢の思想や言動は今後の日本経済にとっても有益なものと言えます。
このような功績を顧みると渋沢栄一がいなかった場合の日本経済など想像もできません。その渋沢がとうとう日本の最高額面の紙幣に描かれます。西欧で初めてみた紙幣に国家繁栄の鍵があると悟った渋沢ですが、自分がその紙幣に描かれる日がくるなど想像すらしていなかったことでしょう。紙幣に描かれた歴代の人物も当然偉大ですが、渋沢ほど紙幣の肖像に適した人物はいません。まさに真打登場です。現在24年ぶりの円安と言われていますがこれほどの人物が紙幣に描かれるのですから、それに恥じぬよう価値のある日本円になってほしいものです。

(完)
(広報 原)

【参考】
国立国会図書館「近代日本人の肖像」
PRESIDENT Online「ビビる大木、渋沢栄一を語る」
東洋経済ONLINE「日本資本主義の父 渋沢栄一とは何者か」
埼玉県深谷市「近代日本経済の父 渋沢栄一」
渋沢栄一記念館ウェブサイト
公益財団法人 渋沢栄一記念財団ウェブサイト

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