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三島由紀夫に魅せられてー強迫症、双極症ー 闘病記【15】

バイトを辞める

アメリカから帰国し、しばらくしてからガソリンスタンドでのバイトを辞めました。女性を追うことはいったんはやめました。それまでバイトは週に4回、8時間ぐらいがっちりとシフトに入っていました。やめたことによりとても時間が空きました。

今思えば症状が比較的安定していたのですから病気の治療に注力すればよかったと後悔しています。しかしその時は、まだ病気を自分の外側に見ていたと思います。私は自分の内側の問題に気づかずに、ただ漫然と過ごしてしまいました。

図書館へ

することがなく、時間が空いているので本でも読んでみようと思いました。そもそも文学部に入ったのですから本を読むことが本業だったのです。

いろいろ思案を巡らせましたが、せっかくなら文豪と呼ばれる作家の作品に触れてみようと思い立ちました。まずは谷崎潤一郎の本を読みました。おもしろかったのですが、だんだんマゾヒズムについていけなくなりました。

そこで選んだのが三島由紀夫でした。三島については割腹自殺したことぐらいしか知りませんでした。それもなんのために割腹自殺したのかは知らなかったのです。三島に関してはほとんど知識がありませんでした。

三島由紀夫全集

幸いに図書館には全集がそろっていました。とても分厚かったのですがどういうわけか全部読んでみようと思い立ちました。そして図書館から借りることにしました。

強迫症の読書

前から述べているように、私には強迫症があります。本を読むときには特に強迫行為が出ます。文章の中の丸や点を数えなければならなくなるのです。また5文字のフレーズを見つけると何回も読んでしまいます。
ページを何回もめくったりすることもありました。大学受験の時には強迫行為がいったんは良くなりましたが、それは受験勉強の一時期のものでした。

本を読むという行為は私には苦痛でした。読むといってもしっかり内容を理解するというより、本のページを稼ぐことに注力していました。
1時間で何ページ読むかを目標にしてそれを達成できると喜んでいました。読み方が強迫症に侵されていたのでちゃんと読んだとは言えません。

またETC(電気けいれん療法)をしたことにより記憶があやふやになっている部分があります。(電気けいれん療法については後日詳しく述べたいと思います)そんなこともあり今では三島の作品の内容はほとんど覚えていません。

『潮騒』

そんな状態にありながらもとにかく三島の全集を読み切るということを自分に課したのです。この姿勢が強迫的です。まず『潮騒』を読みました。青春の恋愛ストーリーだったと思います。

さて三島由紀夫を読み始めて『潮騒』がよかったとカウンセラーに言いました。それには共感してもらえました。しかし全集を全部読むということには賛成してもらえませんでした。『潮騒』は良いと言いましたが、あとはあんまりよくないというニュアンスのことを言われました。

作品が個人的に嫌いという意味なのか、三島の思想に問題があると考えていたのかは分かりません。その時の私は三島の思想や作品の特徴などを知らなかったので、どういうことか分かりませんでした。

美しい三島由紀夫の文章

続いて『金閣寺』、『仮面の告白』などを読みました。私は美しい文章に魅せられました。日本語の美しさを感じました。それと同時に耽美主義と言われるように、美しさに執着する三島の情熱を感じました。ああ、こういう文章を書けるようになりたいと思いました。私はいつか自分で本を出版することを夢見ました。

しかし今考えると三島の危うさに気がついていなかったのかもしれません。そもそも美しいとはどういうことでしょうか。美しいだけで物語を語れるのでしょうか。そもそも人間の生は美しいのでしょうか。

『憂国』

そんな思いを持ちながら『憂国』を読みました。軍人として美しく死ぬことを書いたものでした。人間の生き様死に様について考えさせられました。『憂国』や『豊穣の海』などの三島の作品に影響を受けて、私も桜のように潔く死んでいく死に様に憧れを抱き始めました。

前述べたように、20歳の頃、私は幸福の絶頂で死ぬことが美しいと思っていました。そんなこともあり三島の作品を通して語られる美しい死生観に共鳴する部分があったのです。

美学

生きるとはどういうことだろうか。生きる意味が分からない。生きていることが苦しい。そんな私は潔く死ぬ三島の美学に憧れを抱いてしまったのです。私は何かのために命を捧げるということは美しいと感じたのです。生きる意味がそこに見いだせると思ったのです。

それからいわゆる右翼思想にはまっていきました。戦争がいいとは全く思いませんが、軍隊に入れば自分の精神を鍛えられると思いました。精神を鍛えることにより自分の病気がどうにかなるのではないかという気がしていました。

私はどうしようもない自分の生の状況を右翼思想で突破しようとしていたのです。

死生観

何かのために死ぬというのは美しく見えます。前に述べたように20歳の時に死のうと思いました。右翼思想は生きる意味に悩み、どう生きればいいのかが分からない青年にとっては魅力的でした。

彼女と心中したのは病気で苦しい人生がそこで満たされて終わりにしたいという願望からでした。右翼思想は人間としてのあるべき生き方、死に方を提示してくれるので心酔してしまったのです。

今になって思うと若気の至りだと懐かしく思います。ところが最近は右寄りの思想を持つ人が増え、軍国主義が台頭しています。右翼思想と言うのは私が述べてきたように、何のために生きるか、どういう死を迎えるのがいいかということに対して明確な答えを出してくれます。

そしてそれらに悩む青年は答えを与えられる生きる気力が湧いてきます。お国のために死ぬのが美しいとなると生きる目標ができ、気持ちが盛り上がり興奮してきます。

しかしこうした興奮は非常に危ういということを指摘したいと思います。お国のために死ぬということは、他国の人はどうでもいいということでしょうか。また国のためというと日本だけが繁栄すればいいのでしょうか。他国がどうなろうと知ったことではないということでしょうか。

先の大戦がそうであったように排外主義は不幸な人を生み出します。天皇中心と言いますが、中心を作ると必ず周辺が生み出されます。中心だけが幸せになって周辺の人はどうでもいいということでしょうか。

また右翼思想は心境の問題です。そう思える人と思えない人を生み出します。思えた人はそれでいいかもしれませんが、思えない人はどうなるのでしょうか。

浄土真宗では一人も漏れない救いということを考えます。自分一人が救われるのではないのです。「皆共に」救われるということが大事なのです。

私は精神障害者なので社会的弱者ですし、日本人の中心からはほど遠く周辺に位置することになります。中心の人だけが救いの対象になるようなシステムの中では私は排除されてしまいます。だから周辺の人も一人残さず救われるという真宗の教えでしか救われないのです。

若い頃、右翼思想に染まったのは自分のことしか考えられなかったからだと思います。自分から家族、家族から国へと自我意識を拡大し、自己中心的に考え他人のことは考えていなかったのです。

一方今は自分が周辺に存在することを自覚しています。「皆共に」救われるという真宗の教えがありがたいものとなっています。

よく「死んで浄土に行くと言われますが嫌いな人も一緒でしょうか?」や、「嫌いな人と同じところに行くなら浄土なんか行きたくない」と言われる方がいますが、それは今現在の私たちの感覚でものを言っているからです。

この世ではお釈迦様以外は我執にしばられています。しかし浄土に生まれれば我執はなくなります。「皆共に」という精神が湧いてくるのです。

右翼思想が悪いということを言いたいのではありません。非常に魅力的な考えですし、私も若い頃はまりました。しかしそこには自己を中心にする考えが見えます。我執を離れて「皆共に」という仏教の精神とは相容れないものがあるということだけ指摘しておきます。

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