民主主義のルーツ「ルソー社会契約論」苫野一徳著 書評
<概要>
ジャン・ジャック・ルソー著「社会契約論」を通して、高校生向けの講義録と(自由学園の)高校生との対話録などで、あっという間にルソー哲学のエッセンスが学べてしまう良書。
<コメント>
■古典(哲学)を理解するためには、我々との同時代性への翻訳が大切
竹田青嗣の弟子で哲学者・教育学者、苫野一徳の高校生でもわかる、ルソー解説本。私にとって苫野一徳の著作は2冊目の通読ですが、哲学のポイントを誰にでもわかりやすく、現代の言葉や概念に言い換えて説明してくれるので、あっという間に読めてしまいます。NHK100分シリーズには最適の著者ではないか、と思います。さまざまな人に知られて理解されてこその哲学なので、書かれた時代背景への理解や、著者が外人の場合は翻訳者や解説者が読者と同じ世代かどうか、などが重要で、時代と言語の現代への翻訳が重要(日本人の著者も含む)。
最近取り組んでいるギリシャ哲学も、今に生きる日本人翻訳者によって、ちゃんと現代の言葉や概念に置き換えて読んでみれば、結構すらすらと読めてしまいます。特に昔の翻訳者の著作、例えば昭和の翻訳者・解説者であれば昭和に生きる人たちの感性で書いてあるので分かりにくい。古典は、常に最新の言葉で最新の翻訳家が定期的にアップデートしていかないと、途端に分かりにくくなってしまいます。
本書でも、今に生きる哲学者「苫野一徳」が、ルソーの社会契約論について、今を生きる高校生を対象にしているので、頭にスッと入ってくる、そう感じます。
■ルソーのいう「良い社会の本質」とは民主主義
「民主主義は何かの宗教の経典のように絶対的に正しい考え」と民主主義社会に生きる我々は当然のように思っていますが「その発明者はルソー」と言ってもいいと思います。
哲学を勉強すればするほど「世の中には絶対的な考えはありません」という考え方に落ち着きますが、だからこそ、どんな考えも最大限受け入れられる「民主主義」を唯一の絶対的考えとして我々は受け入れるしかありません。その考えをルソーが発明したのです(そしてヘーゲルが「自由の相互承認」と唱えた)。
唯一受け入れられないのが自分と異なる考え方を排除しようとする、あるいは自分の考え方を強制しようとする「なんとか原理主義(教条主義と言ってもよい)」です(もちろん理解してもらおうと説明&説得するのはOK)。
苫野によれば、ルソーのいう「自然状態は原始狩猟社会のことで、原始狩猟社会は平和で争いのない理想の社会だ」として誤解されているといいます。ルソーが「自然状態」といったのは「人間ってもともと自由に生きたい存在だよね」ということ。そのためにはどんな社会(共同体)であるべきか、それだけだというのです。
みんなができるだけ自由に生きたいのだから、そのためのルールと統治機構を考えましょう。それが社会契約論。なので統治者は共同体の成員の公僕だし、憲法を代表とした近代国家のルールは、国民の自由を守るためのルール。そしてそのための前提としての「教育」だし「情報公開」。
これらに加えて「徒党を組ませないこと」も条件だとルソーが提言しているのですが、今風に言えば、特定団体による利益誘導は一般意志でなく個別意志なのでこれを認めない仕組みが必要、ということだと思います。
このような民主主義のルールのもとで、我々は合意に向けたコンセンサスを形成し、これを「一般意志」としてルールを作ったり(立法)、統治者に委託して社会を運営(行政)してもらいましょう、という感じです。したがって
「合意」だけが正当性の根拠
というわけです。ルソー曰く
日本国憲法の場合も、自由を守るための民主主義のルールの典型です(プラス平和主義)。天皇制でさえ「国民の総意に基づく」という前提条件付きです。著者曰く
■自由は本当に生きづらいのか?
本文中で自由学園の生徒が、
著者は、かといって不自由な社会に戻ることのデメリット(職業選択や幸福追求の自由の制限など)をあげて、デメリットを上回るメリットがあることの理由をあげつつ、それでも不自由を感じてしまう部分もあるのだから、より自由な社会に向けた取り組みが必要だとしています。
私の考えでは、この生徒の場合は「全てを自分で選択しなくてはいけない」という面倒くささを指しているように感じるので、この場合は簡単で、できるだけ自分で選ばなくてよいコミュニティに参加すればいいだけのことです。具体的には単純労働系の仕事への就職、何らかの宗教への入信など、自分の判断が不要な(むしろ嫌がられる)コミュニティに参加すればいいだけのことです。
じつは「単純労働は何も考えなくていい(=自分の選択の余地がない)のでラクだ」という人を、私は何人も知っていますし、宗教を信じればすべては教祖・神・経典などの絶対権威のいう通りに生きていけばいいので、これもある意味ではラクです。自由社会では、自由が生きづらいのであれば、自由を選択しなくてもよい社会を選べるという自由もあるのです。
もっといえば日本国籍を放棄して先制主義国家と言われる国に帰化することも可能です(北朝鮮では脱北となって犯罪ですが。。。)。
なお、自由社会といっても保証されているのは「政治的自由」だけです。経済的自由(貧乏か金持ちか)・コミュニティ内の自由(家族のしがらみや仕事の上下関係など)・身体的自由(運動能力や健康や障害・病気)・時間的自由など、自由には色々あって、全ての自由が保証されているわけではない、ということも認識しておいた方がいいと思います。
■なぜルソーは、自分で子供を育てなかったのか?
本題からはそれますが、昔の人は総じて教育には不熱心だった、というその典型例として、自ら教育論「エミール」を著したルソーの「自分の子供5人を孤児院に入れて自分で育てなかった」という事例が取り上げられます(私も取り上げてしまいました)。
しかし苫野によればルソーが率先して5人の子供を孤児院に入れたわけではなく、貧乏暮らしに加え、内縁の妻(のちに結婚)のテレーズの親兄弟から金銭をたかられるなど、お金がなかったので子供を自分で育てることを断念せざるをえなかった、というのが真相であって決して育てたくなかったからではないらしい。
とはいえ、ルソーは盗癖や虚言癖があったり、と相当な奇人変人だったのは確からしく、そんな独創的な人だったからこそ「民主主義」という革命的な思想を生み出したのかもしれません。
*写真:ルソー生誕地(スイス:ジュネーヴ)