なぜ神と仏は合体したのか?「神仏習合」書評
<概要>
古代以降、元来、基層信仰(神)を保有する日本が、社会環境の変化の枠組みの中で、どのように普遍宗教(仏)を受容し、活用し、変容させていったのか?戦国時代までの流れを簡潔に解明した著作。
<コメント>
奈良のお寺を回っていると「廃仏毀釈」の名の下に仏像が破壊されたり、寺そのものが消失してしまったりと、明治政府は、タリバンがガンダーラのバーミヤン遺跡を破壊したり、中国共産党が文革時代に仏像の首狩をしたり、と同じような酷いことをしてきたんだな、と思います。
我々現代に生きる日本人は、自分含め、ほとんどの人が啓蒙主義を内面化していると思われるので、啓蒙主義に反する行いは「悪行」に感じてしまいます。
善悪の基準は以下の通り、保有する虚構=価値観の違いによって大きく変わる場合があります。一致しない場合は「ネガティブ」な感情が湧き上がりますし、一致する場合は「ポジティブ」な感情が湧き上がります。
■時代と社会の虚構(=価値観)の事例
現代日本 =啓蒙主義 (国際社会と同じ価値観)
近代日本 =神道原理主義 (明治政府が創造した新しい宗教)
中世日本 =大乗仏教
タリバン =イスラム原理主義(ただしアフガンの伝統を原理主義化しただけ)
中国共産党=毛沢東的共産主義(毛沢東の権力闘争ツールとしての共産主義)
さて本題。
廃仏毀釈で興味深いのは「神仏」を切り離して神だけを残していくという手法。つまり日本の場合は長い間「神仏習合」といって神と仏は合体していたのです。
さてなぜこんなことが起きたのか?それを探るために本書を通読しましたが、簡潔かつ説得力強いストーリーで神仏習合の歴史が紐解かれているさまに深く感動しました。
⒈神宮寺=仏になろうとする神(8世紀後半ー9世紀前半)
当時の農村共同体が信仰する神々は、神々であることの苦しみから脱出するために神の身を離れ(神身離脱)、仏教に帰依。そんな神々の願いを実現する場が「神宮寺」と呼ばれ、各地の神社が遊行僧の力を借りて神社を寺化。
この裏には神々の祭祀を主導した共同体的司祭者たる地方豪族たちが、共同農地→私有地化の流れの中で私的領主に変容して田夫との間に富の格差が生まれ、自分たちだけが富を蓄積することの罪悪感を解消するために仏に帰依したがったという現実がありました。
これらの仏教は、王権が主導した南都六宗のような教学的な難しい仏教ではなく、大衆でも信仰可能なインド由来の「雑密」という呪術的(拝めば救われるみたいな)仏教。
これら呪術に頼った雑密に対し、中国唐代の僧「恵果」(746-806)は、大日経と金剛頂経を下敷きにして雑密と大乗密教を合体させ、大乗真言密教として体系化。
唐で大乗真言密教を学んだ「空海」(774−835)は、真言密教によって雑密を体系化・普遍化し、支配層から大衆まで、あらゆる層に密教を普及させました。奈良のお寺も南都六宗から真言宗に改宗する寺も多い(長谷寺、岡寺、室生寺など)のはこんな歴史的背景があったのですね。
⒉怨霊信仰=密教で媒介された神仏習合(10世紀)
当時、亡くなった人の霊魂を祀ることは神祇信仰の中で行われていましたが、クーデターを企てて失敗し誅せられた人々や、菅原道真のように失脚→左遷された人々の恨みの霊魂は怨霊と呼ばれ、疫病や旱魃などの災いは怨霊がもたらすものとされていました。
そこで、怨霊を鎮魂する手段として仏教の力を使い、9世紀ごろから怨霊会(おんりょうえ)と称して怨霊たちを成仏しきれない霊魂とみなし、怨霊会で仏教の経典を聞かせることで成仏してもらおうとしたのです。
⒊ケガレ忌避観念と結びついた浄土信仰(10-12世紀)
穢れ(ケガレ)忌避観念とは
ケガレ忌避観念は、王権神話でも、
というカタチで整理できるといいます。
したがって、列島には過去からケガレを忌避しようとする観念があり、この観念と阿弥陀仏信仰が合体して日本独自の浄土信仰が生まれました。
ちょうど昨日(6月晦日)は「夏越しの大祓い」で、神社に行きますと大きな茅の輪があり、この輪を神主とともにくぐると汚れを祓ってくれるらしい。
浄土信仰のルーツたるインドの浄土信仰では、
つまり現世を穢れ多き世=「穢土」とみなし、死後は「浄土」にいくために念仏を唱えよというのが浄土宗。
日本では浄土教の源流ともいえる「源信(942−1017)」が「往生要集」という仏教書をまとめ、上記インドの五つの大罪ではなく大罪の結果としてのケガレを重視し、
と説いたのです。
そして日頃から殺生を生業としていることから常にケガレに接している武士や狩猟民にも、ケガレ忌避に対する意識が高いことから浄土宗的思考とは相性が良く、幅広く広まったそう。
時代背景的にも、12世紀半ば以降は身分が多様化し、この世に絶対的な寄る術がないという意識が高まったこと、身分に関わらず富の格差が生まれて私有の罪を自覚するようになったこと、もケガレ忌避観念を取り込んだ浄土教が広まった理由。
こうやってみると日本の中世の社会の虚構ともいうべき「密教&浄土教」がなぜ日本に普及したのか、土着の神々やケガレ忌避観念との関連で、よく理解できます。ただ著者のこの仮説が定説なのかどうか?は、自分なりに検証したい気分ではあります。
⒋本地垂涎説と中世日本紀(12世紀以降)
最後に決定的になったのが、有名な「本地垂涎説」。一般に本地垂迹説が神仏習合の理由として一般に言われています。
本地垂迹とは
中世日本紀とは
もともとは、神が仏に近づくことによって浸透していくさまが過去の神仏習合ですが、本地垂涎の考え方では、仏自体が積極的に神に取り込んで、仏の化身としてこの世に神が現れたという感じ。
なんと神祇信仰の本山たる伊勢神宮までもが
と考えていたのです。
そして本地垂迹説に基づく新しい日本の歴史を「中世日本紀」として具現化。
吉野の金峯山寺の御本尊「金剛蔵王大権現」は、お釈迦如来、千手千眼観世音菩薩、弥勒菩薩の三仏が憤怒の形相をもって現れた姿(金峯山寺H Pより)。
これを正式な日本の歴史としていたわけだから、日本の中世は日本土着の神祇信仰を完全に取り込んだ仏教、つまり密教&浄土教を、当時の人々すべからく自分たちの社会の虚構=価値観として内面化していたのかもしれません。
同じ日本列島内でも、社会の思想的基盤となっている中世の虚構は、明治時代の神道信仰、現代の啓蒙主義と全く違うのですから、ちゃんと歴史的経緯を踏まえて「日本とは何か?」慎重に認識する必要があるなと改めて思いました。
*写真:2021年5月 明日香村 岡寺「華の池 天竺牡丹」