「動物化するポストモダン」東浩紀著 私評
<概要>
オタク系文化をポストモダンから生まれたデータベース消費の一環としての文化だととらえ、近代の人間関係をベースとする「欲望」から、人間関係を不要とする「欲求」への転換がポストモダン時代の人間のありようだと解釈した現代思想家の著作。
<コメント>
受講しているセミナーの課題図書で、和歌山フィールドワーク中に読了。
本書は20年以上前の出版(2001年)で当時の日本は「失われた10年」といわれていましたが、今となっては日本は、失われた期間は既に30年におよび、「失われた」どころか、そのまま成長せず一人当たりGDPは韓国にも抜かれ、過去の遺産の食いつぶし(=国債発行など)と、その遺産が生み出す配当金(=金利含む有形・無形固定資産などのストックから生まれるあらゆる付加価値)でかろうじて生き残っている、という状況。
先進国の中でも日本はちょっと極端ですが、世界的にみればこれは西洋社会の近代化→ポストモダンへと至る時代の典型として、1970年代からヨーロッパ先進国は成熟化し、1989年の冷戦構造崩壊から成熟化したポストモダン的状況は一気に加速し、また混迷の時代へと移り替わろうとしているのが現在(アメリカはちょっと違う)。
■日本における近代化(モダン化)=「大きな物語の展開」
近代化という「大きな物語」について、日本を事例にみれば、明治維新政府による近代化以降、近代国家としての「大きな物語」を基盤に人間のありようは規定されてきました。
まずは「日本人」という「概念」の創造。このために神仏分離で神道を国教化し、廃藩置県に代表される統治機構や言語を代表として度量衡や教育、軍事、法律はじめとしたさまざまな領域を「日本」という近代国家の単位で標準化。
この時生まれた「日本の伝統」は明治政府が、西洋的な近代国家を創造するための概念=大義名分として創造した、実に西洋的な「近代化ツール」なわけですが、この辺りは誤解している人も多いように感じます。
戦後も占領国アメリカの価値観(憲法含む)に基づいた高度成長により、日本人全員が共有する様々な文化や技術によって「大きな物語」は続きます。
事例をあげれば
スポーツ=巨人(長嶋や王)・阪神、相撲、東京オリンピック
芸能 =紅白歌合戦、レコード大賞、美空ひばり、ピンクレディー
技術 =三種の新器(冷蔵庫、洗濯機、テレビ)、自動車
文芸 =左翼系・進歩系、たまに極左(学生運動も?)
ただ、著者によれば、これら日本の近代化現象は本来のゲルマン的な近代的人間観が十分に浸透していないために中途半端に終わってしまったといいます。
多分著者が言いたいのはアメリカ型の大衆文化的な「大きな物語」の視点ではなくて、ゲルマン的なボトムアップ型の基盤となる「個人」の視点で十分に成熟しなかった、ということではないかと思います。
社会心理学者ニスベットのいう「個」ではなく「関係」で人間を規定する日本含む東洋人は、文化心理学的になかなかゲルマン的な「個」を受容する歴史的文化的背景を持ち合わせていないからではないかと私は思いますが、それでも「大きな物語」を共有するという意味でのアメリカ的近代化=大衆化は見事に日本でも展開したのではないかと思います。
これは著者紹介のロシア系フランス人思想家コジェーヴいうところの「動物化した文化=アメリカの大衆消費文化」ということで、人間関係を必要としないポストモダン的な方向性につながっていくといいます。
■日本におけるポストモダン化=大きな物語の喪失 →シミュラークルの増殖
バブル崩壊以降は日本も一気にポストモダン化し、大きな物語は消え失せます。そんな中で生まれたのがオタク系文化。
このように今までは「国民的〇〇」と呼ばれる、日本人全員が共有できる文化や価値観(1億総中流など)=大きな物語があったわけですが、ポストモダン化した90年代以降は、日本人全員が共有できる大きな物語はなくなってしまいました。
そしてオタク系文化の特徴であるシミュラークルの増殖が幅を利かせるのです。
最近は「NFT」なるものが創造され、あらゆるコピーが氾濫する情報社会の中で一次創作=オリジナルの価値を改めて見直そうという動きもありますが、20年前はオリジナルから生まれる様々なパーツ(=萌え要素)をデータベース化し、そのデータベースの保有するパーツを自分好みに自由に組み合わせて「楽しむ」というオタク系文化が花開きます。
データベース消費のイメージは、ノベルゲーム「痕」を題材にした以下本書掲載の図がわかりやすい(117頁)。
■動物化するポストモダンとは
先日放送された「朝まで生テレビ(2022年5月28日)」で、司会者の田原総一朗が望まない孤独を解消しようというNPO法人理事長大空幸星に対して「SNSが普及してこれだけコミュニケーションが増えた時代になぜ孤独に感じてしまう若者が多いのか」と問いました。
大空氏はその答えとして「コミュニケーションが人を救うのは量ではなく質だから」といっていたのが印象的でしたが、これは著者のいう「動物化するポストモダン」仮説も、今となっては、だいぶ変わってきたのかな、とも思います。やはり「お互い腹を割って話せる」という人間関係はとっても大事なんだと思います。
著者のいう動物化するポストモダンの人間像とは、他者からの承認によって近代的人間のアイデンティティは成立するとしたヘーゲルのいう近代的人間像は終わり、データベース化された、ただただ目の前の刹那的な要素(萌えなど)を組み合わせて動物的に消費し、自分の欲求を満たすのがポストモダン社会の人間像だとしました。
ちなみに動物行動学の知見によれば、著者はじめとする現代思想家の想像する動物像は一部誤りで、群れをつくる動物に関しては仲間外れにされてしまうとそのまま死に直結するため、他者からの承認は不可欠。なのでヘーゲルの仮説は人間という群れをつくる動物にとっても逃れられない本性ではないかと私は思います(詳細は以下参照)。
以上、20年前の著作だとはいえ、社会学者宮台真司が「意味から強度へ」と主張した当時のポストモダン的な状況が目に浮かぶようで、懐かしく本書を読み終えることができました。