マガジンのカバー画像

地理・歴史学

176
人の価値観は、外的環境に大きく影響されます。地球全体に関して時間軸・空間軸双方から、どのような環境のもとで我々が今ここにいるのか?解明していきたいと思っています。
運営しているクリエイター

2023年11月の記事一覧

「京都の風土」鎌倉時代:親権力の臨済宗⇔反権力の浄土宗

京都が権力から見放された鎌倉時代。京都の天皇家や摂関家は、当初は武家におもねって、武家に愛された臨済宗を信仰したものの(→東福寺)、時が経過するにつれて自らもその必要性に迫られて臨済宗を信仰するようになります(→南禅寺、大徳寺、妙心寺)。 一方で、江戸時代に徳川家の篤い信仰を受け、今では巨大な伽藍を擁するる浄土宗の寺(知恩寺、金戒光明寺)は、当初は既得権益を有する南都北嶺(奈良興福寺&比叡山延暦寺)からの迫害を受けた反権力の改革派で、臨済宗とは真逆の立場でした。 ⒈禅宗の

「京都の風土」院政と神仏習合の熊野詣

天皇家が「院政」という形で政治権力を藤原摂関家から奪還したのは平安後期。この時代の痕跡は、なんといっても神仏習合の象徴「熊野権現」を祀った熊野三山と修験の世界です。 170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位して以降、藤原氏の影響力が衰えて権力が再び天皇家に戻ります。そして白河上皇より院政政治が始まります。 ⒈熊野三山検校職「増誉」この院政時代、日本古来の宗教「修験」と深く結びついた天台密教は、天台宗寺門派の円珍門下が熊野三山検校職(京都における熊野三山の統括職)

「京都の風土」聖俗が一体となった天皇親政時代

桓武天皇と和気清麻呂が、平安京を創設以来、江戸時代まで天皇の拠点として約1200年間、聖俗が織りなすその人間模様が、寺社仏閣などのカタチで京都にその痕跡を残します。 ⒈「桓武&最澄」「嵯峨&空海」のコンビ中国(唐)に憧れていたという桓武天皇とその息子、嵯峨天皇は、和気親子から最澄や空海を紹介され、その憧れとともに完全に仏教にハマってしまいます。 最澄、空海は、唐に留学し、最先端の仏教を学んできます。中国の情報や文化が喉から手が出るほど欲しかった桓武・嵯峨天皇が重宝するのも

「京都の風土」摂関家が熱中した密教&浄土教

天皇家は菅原道真などの登用によってなんとか藤原家の力を削ごうとさまざまに画策してきたものの、うまくいかず、醍醐天皇を継いだ朱雀天皇が幼少で病弱だったことから、藤原摂関家が権力を天皇家から奪い、権威(=天皇家)と権力(=藤原摂関家)が分裂する摂関家の時代に入ります。 中国への憧れから冷め、藤原忠平(菅原道真を左遷した藤原時平の弟)に始まった摂関政治は、藤原道長やその息子頼通に至り、仏と日本独自の神が融合した神仏習合の世界を展開しつつ、末法思想の時代でもありました。 この時代

「京都の風土」弥生と縄文が混在する古代

梅原猛の『京都発見』を参考に時代ごとに京都の姿を整理。まずは京都が都になる前の古代について。 ▪️弥生と縄文が混在した古代の京都平安京以前の京都は、東南・西南に居を構える中国移民で弥生系の秦氏(新羅人という説も)と京都の東北に居を構える縄文系古代人の鴨氏の支配する地域でした。 一方で、観光客に人気の清水寺や伏見稲荷も京都に都がおかれる前からあったといいますから、ちょっと意外な印象でした。 特に清水寺は、藤原家の氏寺として、聖俗ともに奈良を支配していた興福寺(法相宗)の出

「京都の風土」聖と俗が織りなす京都の歴史

京都の風土を勉強するにあたり、とても参考になったのが、宗教思想家梅原猛が、読売新聞→京都新聞で6年2ヶ月の長きにわたって連載したコラムをまとめた単行本『京都発見1〜9』全9冊。 著者自身『京都発見9』最後の寄稿で「黄檗宗の萬福寺と日蓮宗までたどり着けなかったのは誠に残念」とのことですが、70歳を過ぎて、80歳に至るまで毎週、文献を読んでフィールドワークしてインタビューして文章にまとめて、という作業を6年ちょっと続けてきたわけですから、本当にお疲れさま、というしかありません。

「京都の風土」今に生きる仏教の姿=鈴虫寺

虫が一年中鳴いている寺として有名な華厳寺(鈴虫寺)は、江戸時代に南都六宗のひとつ、奈良東大寺の宗派「華厳宗」のお坊さん「鳳潭上人」が創建した華厳宗のお寺で、その後1868年に慶巖という禅宗「臨済宗」のお坊さんが入山して今は臨済宗のお寺になっています。 失礼ながら苔寺(西芳寺)などの周辺のお寺と比較すると由緒ある古い寺ではないためか、集客のために鈴虫を飼って通年中鳴かせ、法話とセットで拝観者を集客しているらしい。 これが見事に当たって大人気に。 相当儲かっていると思われ、