「京都の風土」聖俗が一体となった天皇親政時代
桓武天皇と和気清麻呂が、平安京を創設以来、江戸時代まで天皇の拠点として約1200年間、聖俗が織りなすその人間模様が、寺社仏閣などのカタチで京都にその痕跡を残します。
⒈「桓武&最澄」「嵯峨&空海」のコンビ
中国(唐)に憧れていたという桓武天皇とその息子、嵯峨天皇は、和気親子から最澄や空海を紹介され、その憧れとともに完全に仏教にハマってしまいます。
最澄、空海は、唐に留学し、最先端の仏教を学んできます。中国の情報や文化が喉から手が出るほど欲しかった桓武・嵯峨天皇が重宝するのもよく理解できる一方、天皇の権力と富を活用して布教に勤しんだ最澄・空海もさすがの名僧。
名僧は、単純に僧としての能力は当然のこと、もっと大事かもしれないのは、いかに支援者を獲得するか、ということ。彼らは、いわゆる究極の「人たらし」であって、だからこそ天皇を見事に取り込んで布教に成功するのです。
平安京の西寺が喪失し、東寺が今も京都の南に座し、国宝満載の巨大な伽藍として現存するのは、空海(弘法大師)という日本仏教で一二を争う名僧が嵯峨天皇から賜ったおかげともいえます。
⒉牛頭天王と八坂神社
祇園祭で有名な八坂神社ですが、これは典型的な廃仏毀釈の成れの果て。元々は祇園社という名前で、牛頭天王というスサノヲ(神)と薬師如来(仏)が同体とされた神仏を祀る神宮寺。
桓武天皇の時代、様々な怨霊が出現したので、その怨霊を鎮めるために怨霊神社なるものが建てられましたが、それでも怨霊の怒りは治まらない。もっと強い神仏がいないかとして登場したのが牛頭天王だったのです。その際に「矛66本を立て祇園社から神泉苑へと神輿を送った(社伝)」とあり、これが、今の祇園祭の始まり。
明治政府の神仏分離令によって、その牛頭天王の仏部分を無かったことにし、スサノヲのみを祀った八坂神社と改名。「牛頭天王」が抹殺されたのは「天王」が「天皇」と同じ発音だったことも災いしたらしい(畑中晃宏著『廃仏毀釈』)。
かつて祇園社は清水寺と同じく奈良興福寺の管轄下にありましたが、のちに比叡山延暦寺の配下に。
牛頭天王という名は、新羅に牛頭山という山があり、熱病に効果のある栴檀を産出したことから、この山の名を冠された天王を疫病に効く神として崇めたことによるといいます。この牛頭天王の疫病信仰がインド密教と結合し、さらに陰陽道の信仰とも混じり合って我が国に伝わったらしい。
牛頭天王は釈迦が仏教を広めた祇園精舎にちなんで祇園天神ともよばれ、その縁でこの一帯が祇園と呼ばれるようになったといいます。
⒊政治と宗教が一体化した寺「仁和寺」
後述の醍醐天皇の父、宇多天皇は、自ら法皇となって仁和寺に拠点を構え、仁和寺から政治をコントロール。仁和寺は宇多天皇が自ら法皇となって初代の住職となった寺なので「御室(尊い方が居られる僧坊)」と呼ばれ、ほぼ代々天皇の皇子及び皇孫という貴い方が住職を務める寺。
宇多天皇は「中国から離れるべき」とし、藤原摂関家の権力を削ぐべく菅原道真を重用しましたが、菅原道真は宇多天皇の後を継いだ醍醐天皇の時代に藤原時平によって左遷され太宰府で死去して怨霊となります。
⒋修験の真言密教徒 聖宝と醍醐天皇
醍醐天皇って変わっていて、何が変わっているかというとその「醍醐」という名前。「醍醐」とは仏教の特に真言密教の用語だから。
一般に崩御した後に贈られる名=諡(いみな)は、中国の伝統に倣い、その天皇(皇帝)に対する在位中の評価が含まれているのですが(神武天皇、文帝など)、途中から日本では引退後に住んだ地名を諡として贈る風習に変わりました(嵯峨天皇など)。
ところが醍醐天皇だけは違う。醍醐は地名ではなく仏教用語。これには醍醐寺を建立した空海の弟子の弟子だった聖宝(しょうぼう)が関係しているらしい。
空海を崇拝していた聖宝はもともと修験者。
紀伊半島の大峰などで修行した後、唐に留学して真言密教を学びます。帰国後、自分の拠点を笠取山の山中に置きました。それが今の上醍醐寺。聖宝は、この地にあった湧き水を「醍醐水」と名付けます。
醍醐天皇は聖宝に皇子誕生の祈願を依頼し、見事に皇子が誕生。その御礼として醍醐天皇がパトロンとなって聖宝が醍醐寺を建立。
そして醍醐天皇は醍醐寺近くに葬られたのですが、なぜか諡が与えられず、やむなく寺の名前をとって「醍醐」と名付けられたという。
このように聖宝と醍醐天皇は持ちつ持たれつの関係だったのですが、醍醐という名が寺の名前になったとは驚きです。
*写真:醍醐寺 三宝院の名石「藤戸石」
庭の中心に位置するこれらの石は、阿弥陀三尊を表し、歴代の武将に引き継がれたことから「天下の名石」といわれているそう。