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「京都の風土」弥生と縄文が混在する古代
梅原猛の『京都発見』を参考に時代ごとに京都の姿を整理。まずは京都が都になる前の古代について。
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▪️弥生と縄文が混在した古代の京都
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平安京以前の京都は、東南・西南に居を構える中国移民で弥生系の秦氏(新羅人という説も)と京都の東北に居を構える縄文系古代人の鴨氏の支配する地域でした。
一方で、観光客に人気の清水寺や伏見稲荷も京都に都がおかれる前からあったといいますから、ちょっと意外な印象でした。
特に清水寺は、藤原家の氏寺として、聖俗ともに奈良を支配していた興福寺(法相宗)の出先機関だったので、清水寺の山の上にある比叡山延暦寺と領土を巡って争って、時には攻め込まれ伽藍を何度も比叡山に焼かれたとのことなので、聖の世界といえども領土争い、権力争いは凄まじい。
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さらに興味深いのは先述の中国移民の秦氏と縄文という先住民の鴨氏。以下その詳細です。
⑴弥生系の秦氏
秦氏は、治水によって稲作文化や養蚕文化を京都に導入し、聖徳太子など、ヤマト政権と連携して日本を文明化しようと企図。嵐山の桂川には秦氏が造ったという堰「葛野大堰」が今でも残っていますし、広隆寺の建立も、仏教による社会の安寧を目指すためだったはずです。
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そして彼らの痕跡が松尾大社や法輪寺として今に残っているのです。ただ松尾大社に関しては現地に行ってみたのですがHPでは秦氏のことに触れているものの、
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現地では「醸造の神様」のみがアピールされていて秦氏の痕跡をみることはできませんでした。ちょっと残念(見落としたかもしれませんが)。
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⑵縄文系の鴨氏
一方の鴨氏は「葛野鴨県主」または「葛野主殿県主」と呼ばれた氏族で、倭王に同盟・服属して「葛野県」の県主となり、薪炭や氷を貢納。
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もともと奈良の葛城山にいた縄文系氏族でしたが、熊野経由で
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熊野の八咫烏も鴨族を象徴する鳥だから、熊野も鴨族の拠点だったと思われ、ヤマト政権を案内して奈良盆地に入ります。そして更に北上し、ヤマシロの岡田(木津川市)に移住(その痕跡は岡田鴨神社)。
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次に木津川をくだって桂川と鴨川の合流点に至り、鴨川を遡って現在の上下賀茂神社辺りにとどまります。京都の上賀茂神社でも八咫烏が象徴的に使われていたのをみると、八咫烏は鴨一族を象徴する動物とされているに違いありません。
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そして丹波の神イカコヤヒメを娶るなど、ヤマト政権と姻戚関係にあった丹波のタニハ一族とも関係を結びます。
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以上の二つの権力は、ヤマト政権と繋がりの強い権力であることから、その後この地に都がおかれるのは和気清麻呂の提言がきっかけだったとはいえ、自然なことだったのかもしれません。
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*写真:上賀茂神社