ジョン・アーヴィング著『オウエンのために祈りを』を読んで思うこと
どこかで誰かが「これは名作だ」と褒めていたのを見て、それをメモしておき、しばらく経って買った『オウエンのために祈りを』。
どんな本なのかほとんど予備知識なく購入してしまった。
私のリマインダーアプリには「インプット」というリストがあり、そこに(出所はもはや不明なものも多いのだが)「読んでみたい本」「読むべき本」「勧められた本」などが並んでいて、端から購入して積読になっていくシステム。
上下巻、それもかな〜り長い作品。
一章一章が長くて、キリがいいところまで読む、というのがほとんど不可能。(私には)
昔読んだ「アンナ・カレーニナ」ぐらい苦戦した。それに比べれば現代に近いのではあるが。
はっきり言って、読み終えるのに4ヶ月近くかかってしまった。
これを読みながら、本屋大賞ノミネート作品を大量に読んだせいもあるけど。
でもよかった。とてもよかった。
人生を変える一冊といっても過言ではない。
以下、感想です。ネタバレ注意。
少年たちの‘大切な‘物々交換
序盤、もっとも感動したところ。
オウエンが野球の試合中、ファールボールでジョンの母を死なせてしまってから。
オウエンは大事にしていた野球カードをジョンに渡す。
ジョンはダンにもらった大切なアルマジロの剥製を渡す。
その少年たちの物々交換がとても尊くて、そしてそれを見守るダン・ニーダムが切なかった。この部分に非常に文学的な心の震えを感じた。
このような悲惨な事故があり、過失とはいえオウエンがボールを打った。それでもこの物々交換によって、なお彼らが親友であり続けようとする意思表示だと思う。
義理の父親ダン・ニーダム
そしてダン・ニーダム。愛する妻を亡くしながら、ジョンとオウエンに寄り添うと決めたダンの決意のようなものが見える。
彼の存在の素晴らしさが作中、引き立つ。お母さん(タビサ)が惹かれるのもわかるというか。こんな真っ当な父親はジョンにとっては本当に最高だと思う。
そして後半、ダンの職場で学生生活を送るオウエンのこともダンは大いに助力する。
本当の父親は…
物語終盤、ついにジョンの父親が明らかになる。オウエンの死後のことだ。
まさか彼が父親だったなんて!
ショッキングでもあり、ジョンと同じように落胆もする。タビサもただの田舎娘だったのだと。
それから彼(ジョンの本当の父親)の信仰のこと。
「奇跡」は本当にあるとしても、本当の父親に起きていることは奇跡なのか。
それではオウエンの周りで起こっていることは?
ジョンのダミーを使った「奇跡の捏造」で、彼(ジョンの本当の父親)は信仰を取り戻す。彼の信仰とはその程度のものなのだ。
信仰について日本人が思うこと
「信仰」についても深く考えさせられる作品である。
「奇跡」は時として起こる。しかし、偶然と言って仕舞えばそれまでだ。
「神」を信じるか信じないか。信仰を持つか持たないかで、その出来事の価値や捉え方は変わってくる。
確固たる信仰を持たない人が多い我が国で、それでも確かに「祈りたくなる」瞬間は訪れる。
「祈りたい」と思う時、その人は信仰を持っていると言えるのかもしれない。
そんなことを過去に大江健三郎作品で読んだのを思い出した。
神様が与え賜うた小さな友達
オウエンのもつ信仰と奇跡は、紛れもない本物に思える。
オウエンは、やはり天使であり神だったのだと思う。
神様が与え賜うた小さな友達。
身の回りで起こる不思議なこと。不思議な一致。予感。夢。共感。
それらを受け入れ、自分の運命と共に生きるオウエンは強く尊い。
戦争を容認する国に蔓延る殺人願望
オウエンは最後、ある少年に殺されてしまう。
オウエンを殺した少年は、戦争を心待ちにしているような、人を合法的に殺すのが楽しみでしょうがないような人物。
そしてその少年をオウエンの同僚が「救いようがない」と表現した時、オウエンはこう言う。
「誰が『救いようがない』のかを判断するのは、あなたでもぼくでもない。われわれが判断することではありません」と明言する。
そのセリフがとても道徳的に思えた。
何人たりとも「救いようがない」と、他者から決められてはいけない。決めていいのは神様だけかもしれない。
今、アメリカでは銃乱射事件が多発し、問題となっている。
こういった問題を起こすのも、オウエンを殺した少年のような、戦争、人殺しを正当化してしまう人間なのだろうか。
国家が戦争を許している限り、人殺しはモラルに反する、と絶対的に強くは言えないと思う。また、「人殺しをしたい」と思う人たちが言葉を聞き入れるか、信仰や教養の問題もある。
日本は(一応)戦争を放棄している。それでも、無差別殺人は起こるのだが。日本の戦争放棄が「タテマエ上」というのが見え透いているという問題もある。
しかし、アメリカのように銃への規制が弱かったら、本当にどこへ行くのも恐ろしいと思う。学校に預けた子供ですらも危険に晒されるのだから。
私には、兵士のメンタリティがわからなすぎる。共通点が無さすぎる。
想像力を働かせても、人を殺すために敵地に送られるなんて、私にとって殺されるよりも地獄だ。
全ては防衛のためだと割り切れるのだろうか。
人殺しを認められている人たち。敵ならば殺してもいいと思っている人たち。
それを許す国家。
全てがおかしいと思っていた。
平和主義者に対する態度
その一方で、オウエンやジョンの平和主義者に対する侮蔑的な態度も印象的だった。
確かに、平和活動家の一部の人たちは「モテたいだけ」に見える人もいるだろう。
ただ「徴兵するな・戦争反対」と言っていても、何も始まらないのだ。侵略戦争を止めるための防衛はしなければならない。ウクライナにしてもガザとイスラエルにしてもそうだ。
恋人のへスター(ジョンのいとこ)の両親に、戦争行きについてオウエンが雄弁に語る箇所がある。
「僕は自分の目でそれを確認したいのです」
私はもっと学ばなければならない。オウエンのように。
そして多くを見渡して前へ進むのか、後退するのか、戦うのか、戦わないのか、どのような主義思想を支持するのか、決断しなくてはならない。
個人の意識
伊丹万作の「騙されるものの罪」という有名な一文がある。
第二次大戦で、国家に「騙されていた」とする日本国民たちを酷評した辛辣な一文。
コロナ禍では、ブラックライブズマターで掲げられた「沈黙は有罪」という言葉もある。
そして、マハトマガンジーは
「あなたがこの世で見たいと願う変化に あなたがなりなさい」といった。
それから「オウエン」の作品中、ケネディ元大統領は
「国家が諸君に何をやってくれるかを問うな。諸君が国家のために何をできるかを問いたまえ」といった。
全ては個人の意識なのだ。国家がどこかへ自然と連れてってくれるわけもない。何も考えず、のうのうとついていけば、その先は絶望行きの可能性だってある。
幸い私には、かろうじて本を読めるだけの教養はある。
オウエンを殺した少年のように、
モラルや教養や信仰から目を背け、人殺しを好むようには絶対になりたくない。
一人一人が学び、考え、行動しなければならないと、この本を読んで強く感じた。
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