にと日記 18
6月7日 梅雨の晴れ間
いやに長かった五月も去って、庭の小果樹の実が矢継ぎ早に熟れ始めた。
昨冬の豪雪で、けちょんけちょんになっていることもあって放置していたハスカップの茂みも、いい加減手を加える必要が出てきた。
蜂の巣に気を付けながら小一時間、下草と古枝を整理した。今年は蜂の巣は無かったけれど、まだ今の時期ならば女王蜂一匹。これが、夏になってから首を突っ込もうものなら、痛い!が5、6倍になるというものだ。
それはそれとして、下草取りには時期があり、それなりの勘所もある。そして出来ればこんな作業、年一回で済ませたいもの。手遅れにならない範囲内で出来るだけ遅い方がいい。
そこで重要なのは、自分が一体どんな植物に“手をかけている”のかをちゃんと理解する事だ。種類は?生育は?繁殖手段は?そして本当に根絶やしにするべきだと思うのか否か。それも分からないまま、ただ鎌を振り続けるのは、まったく何かの刑に処された様なものだが、草取りが苦行と言う人は多分これなのだろう。反対に、理解が進めば次第に楽になっていく。
そしていつしかガーデナーは考える。ヒトについて。セカイについて。
この世の全てに納得したような心地になるのだ。ひとり黙々と農作業をしていると。僕だけではあるまい。きっと多くのガーデナーが同じ原理で哲学者になる。
そうか、この世界はシーソーゲームだから。こうして“質量”をもって生まれてきたのなら。そんなふうに思う時がある。不満のど真ん中で、失望のど真ん中で、声を大にして抗い、戦い続けることは、本当に報われることなのだろうか。
もしも自分が、声でも、情報でもなく、実態のある存在としてここにあるのなら、抗いたくなるような世界に“身を置くこと”は、その存在に一人分の力を与えること。
例えば平和を望むなら、あなた自身が平和であれば良い。もちろんそれで、世界は平和にはならないけれど、平和のために戦場で叫んでも、その戦争に一人分の力を与えるだけ。
この世界はシーソーゲームだから。そこに身を置くことは、望むと望まざるとに関わらず、その世界に力を与える。
だから、もし社会が、職場が、家庭が自分にとって受け入れがたい世界なら、それをぶち壊したり、理解を勝ち取るよりも、根本的に大事なのは、そこに“居ない事”。
そして、僕にとっては”ここに居る“事であり、
”ここに居る“と言える事なのだ。