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『ルックバック』という映画のどうしようもないくだらなさについて

「僕の言ってることは、大抵の人間にはまず理解されないだろうと思う。普通の大方の人は僕とはまた違った考えかたをしていると思うから。でも僕は自分の考え方がいちばん正しいと思ってる。具体的に噛み砕いて言うとこういうことになる。人というものはあっけなく死んでしまうものだ。人の生命というのは君が考えているよりずっと脆いものなんだ。だから人は悔いの残らないように人と接するべきなんだ。公平に、できることなら誠実に。そういう努力をしないで、人が死んで簡単に泣いて後悔したりするような人間を僕は好まない。個人的に」

村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』




 新宿バルト9で『ルックバック』(2024)を観たことは、かなり印象深い体験ではありました。なんせ劇場は満員、エンディングでは啜り泣きが聞こえ、誰もが満足そうな顔をして会場を後にしていく……まさに理想的な映画興行の光景がそこに実現されていたのですから。自分の中にある冷たい感情と、周囲の熱狂との落差にぞっとしながら、劇場を後にしたのを覚えています。
 はっきり言って、わたしはこの『ルックバック』という映画が嫌いです。Amazonプライムビデオの広告にこの映画が出てきただけで、軽く舌打ちしたくなるほど。そして、その嫌悪感は、決して根拠のない趣味的な判断によるものではないのです。以後、その理由について4500字ほどかけて論じていくことにします。広く賛同者を募ろうというつもりもありませんが、読者の理解を乞うのみです。

 なお、言うまでもなく、『ルックバック』は藤本タツキ氏による読み切り漫画を原作とする映画であり、物語内容はほぼ共通しています。だから、以下に書かれる文章は必然的に、原作漫画への否定ともなるでしょう。ただ、映画を観終わった後の率直な印象として、原作漫画はまだ許せたな、と感じたのも事実ではあります。この点は後に言及しますが、さしあたり本記事は、映画作品に対する批判として読んでいただければと思います。



1.この映画の幼稚で独り善がりな物語について
 まずは物語の議論から始めましょう。『ルックバック』が展開する物語の何が駄目かというと、端的に言えば、漫画家=芸術家の描き方がきわめてガキっぽいという点にあります。
 芸術家を主人公にした映画は無数にあります。わたしが今ぱっと思いつく限りでさえ『モンパルナスの灯』(1958)、『アメリカの夜』(1973)、『アマデウス』(1986)、『カミーユ・クローデル』(1988)、『戦場のピアニスト』(2015)、『Mank/マンク』(2020)……と、挙げ始めるときりがありません。これらは、出来不出来の差はありますが(わたしは『戦場のピアニスト』には以前から疑問を感じています)、しかし間違いなく「大人」の映画ではあるわけです。
 芸術家の生を主題とするこれらの映画が共通して描いているのは、きわめて単純化して言えば、芸術への欲望とままならない実人生との相克です。芸術家というものは、大なり小なり世俗社会の通念とは違う世界を生きています。ですが、他方で彼・彼女は一個の肉体的・社会的存在であるほかなく、その時代、その場所の条件に否応なく拘束されます。だから、彼・彼女はどうもうまくいかない。そのうまくいかなさにこそドラマがあり、人生の手触りがあるわけです。
 芸術家を扱う映画が、この実人生という問題に向き合うことは当然のことです。人はパンのみにて生きるにあらず、さりとてバラだけで生きるわけでもない、とまともな大人なら知っているからです。芸術家をひたすら称揚する映画などというのは、基本的にガキしか考えないようなことなのです。『ルックバック』がガキっぽいというのは、そのような意味においてです。

 『ルックバック』においては、ひたすら芸術家としての主人公の自我のみが絶対化され、ヒロインの京本は、それに付随するような形でしか登場してきません。そこに人生の厚みはありません。実際、我々は、京本の家庭環境がどういうものであったかも、また彼女が美大でどのような人間関係を構築していたのかもわからないのです。映画の最重要人物といっていいキャラが、これほど正体不明の存在であるというのは、考えてみると奇異なことではないでしょうか。
 京本は、もっぱら生きている間もまた死後も、主人公の生き方を都合よく肯定してくれる従属的存在でしかありません。彼女が自分自身の独立した意志を辛うじて示すのは、美大に行くという判断をするくだりだけです。そんな京本に、主人公はひどく冷たい言葉を並べ、彼女たちの最後の別れは、喧嘩別れのような形になってしまいます。
 その数年後、京本の死を知った主人公は、むろん後悔をします。その後悔の内容といえば、自分が漫画を描いて京本を部屋から連れ出さなければ、京本は死ななかった、だから京本が死んだのはわたしのせいだ、という反実仮想です。でも、違うでしょう。この人が本当に後悔しなければならないのは、京本と正しく別れることができなかったことに対してでしょう。京本が自分とは違う考えを持ち、自分とは違う生を生きている一個人であるという事実を、彼女は受け止めることができなかったのですから。
 しかしこの映画は、こうした主人公の不快な人間像と同様、京本がひとりの人間であるという事実にまったく無頓着です。京本には、ろくに葬式の描写すら与えられていません。彼女の死を悼む人間は、主人公以外には存在していないかのようです。そして主人公は、京本の部屋に都合よく残されていた、主人公のセンチメンタルな自意識にとってのみ都合のいい4コマ漫画に勝手に励まされ、漫画家として頑張っていくぞ、と立ち直るのです。
 『ルックバック』において、京本が美大で過ごしていた=主人公から離れて過ごしていた人生の最後の日々は、丸ごとなかったことにされています。彼女の大学での仲間たちのことなどは、きれいに画面から抹消され、主人公と漫画を作っていた幼少期の記憶、主人公に都合のいい記憶だけが、気色の悪い回想によって美化されていくのみです。『ルックバック』は本質的に、主人公に都合のよくないことは映らないように作られた映画なのです。

 ここには、ひとりの人間が人生を奪われたことへの衝撃も、その人への生前の向き合い方に対する真摯な反省も存在していません。これほど独り善がりという言葉がふさわしい映画が存在するでしょうか。



2.この映画の演出について
 
“感動的”な場面では“感動的”なBGMが流れるという、駄菓子のような単純な音楽の使い方です。主人公と京本の漫画づくりが回想されるシークエンスは無意味に長ったらしく、安手の情緒性に満ちています。どんなバカでもちゃんと泣けることを目的に作られているという意味では、24時間テレビとほとんど同レベルです。
 この点、漫画原作の方がまだよかった(マシだった)と思うのは、このような不快な音楽や“感動的”な盛り上げによる停滞がなく、ドライかつスムーズに物語が進行していくところです。だから、同じ物語を語っていても、受ける印象はかなり異なります。わたしが「漫画版はまだ許せる」と思うのは、このあたりの事情によるものです。



3.実在の事件をモチーフとすることについて
 
わたしの見る限り、『ルックバック』批判者の多くは「現実の事件で金稼ぎをしており、不謹慎だ」という内容の主張をしているようです。しかし、わたしはこのような立場はとりません。
 たとえば、現実の事件をフィクションで扱うことは糾弾されるべきだ、という論理を敷衍していけば、戦争映画は誰も撮れないことになります。数十年前のことだからセーフだ、社会的意義があるからセーフだ、ということになるのでしょうか。しかし、その基準はきわめて曖昧で恣意的なものになるほかないのではないでしょうか。

 ……とはいえ、やはり気になるところはあります。つまり『ルックバック』という映画は、それが明らかにモチーフとしている事件に対して、どのように向き合おうとしているのか、ということです。
 実在の事件をモチーフとして作品を構成するということは、その事件に対して、作り手がある解釈を提示するということです。三島由紀夫が金閣寺放火事件から、美への憎悪と執着を見出して芸術化したように。これは当たり前のことです。何の解釈も示さないのであれば、実際の事件をあえて扱う理由はないわけですから。
 だから『ルックバック』も同様、京アニ事件に対するひとつの解釈として、我々の前に提出されていることになるはずなのですが、しかし本作の物語内容からは、そのようなものを読み取ることはできません。そこでは、単に異常者によって芸術家が殺害されたというワイドショー的な事態がそのまま大雑把に借用されているだけであり、現実の事件にフィクションとして向き合おうとした痕跡はありません。
 このような展開は、単に物語にパセティックな彩りを与えるためだけに存在しています。京本の死の原因としては、それが自動車事故でも急病でも別にかまわないわけです。つまり『ルックバック』は、あえて京アニ事件との関連をにおわせることに対する必然性が見受けられないので、アテンションを集めるために有名な事件をネタにしたのではないかという疑問が出てくるのは当然です。議論されるべきのは、実在の事件とつながりを持たせることの是非ではなく、その向き合い方だと言えるでしょう。

 ……まあ、結局のところ『ルックバック』の物語が、人の死を美談にすることで泣かせるというきわめて単純なメロドラマでしかないことが問題なのですが。無垢な人間が理不尽に死ぬことで泣けるという感性の浅はかさは、『世界の中心で、愛を叫ぶ』(2004)や『恋空』(2007)、『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら』(2024)と何の違いもない。
 だから『ルックバック』は本質的には、芸術家の物語でさえないのです。この作品の感動の本質は、人が死ねば泣ける(死者が自分を励ましてくれたらもっと泣ける)というものでしかないのですから。それなのに『ルックバック』を何か特別なドラマ、クリエイター賛歌であるかのように感じた人間がこれだけ多く現れたのは、結局のところ、本作が京アニ事件と何らかの関係があるかのように見せかけているからです。『ルックバック』はつまるところ、そのような映画だとしかわたしには思えません。



4.救われるということについて
 
蓮實重彦は『見るレッスン』(2020)において京アニ事件に言及し、「映画は救われるために観るものではない」という意味のことを述べました。つまり、わたしたちは京アニに救われてきたと公言するファンの態度は間違っている、ということです。
 それが正しいかどうかは、ひとまず措いておきましょう。しかし、少なくとも、『ルックバック』が提示するような「救い」で救われてはならないことは明白です。なぜなら、それは主人公や、彼女の感性に同調する観客以外にとっては何ら救いではないからです。物語の結末部で救われるのは彼らだけで、京本その人は置き去りにされたまま終わっています。
 京アニ事件の受容に対しても、同様のことを指摘しうるのではないでしょうか。確かにあの事件によって、我々の社会はかけがえのない優秀なアーティストたちと、彼らが未来に創造したであろう多くの作品を喪失しました。せめて我々は、彼らの作り上げた作品を長く評価し、次の世代に残していかなければならないでしょう。
 しかし、それ以前にあの事件は、何よりも、ひとりひとりの人間が理不尽な死を強いられた事件であったわけです。我々は彼らの作品に救われることもあるでしょう。しかし彼ら自身が救われることはないのです。死の残酷な決定性、死者の他者性とはそういうものです。『ルックバック』は人の死を扱いながら、死のそのような側面に向き合っていません。本作において死者の死は、生者が気持ちよくなるために利用されるのみです。
 このようなポルノまがいの「救い」は、市民として断固拒否したいものです。そして、誰もがいつ死ぬかわからない以上、せめていま生きている人間に対しては、後悔しないような接し方をしたいものです。友人が美大を志望すると言い出したら、四の五の言わずに温かく応援してあげるべきでしょう。だって、それが今生の別れになるかもしれないのですから。


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