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意味や成長への信仰を捨てると世界のねじは回り始める

ここ数ヶ月、村上春樹を読み倒している。
勘の良い人は「ねじを巻く」という単語ですぐ分かってしまうね。

登場人物にやたら女性が多かったり、ロマンチストを全面的に肯定しきった物言いを除いて、世界や感覚の表現能力の秀でた文章に目から鱗が落ちる連続だ。

世界のねじを巻くのは一体誰なのか。

少なくとも僕は自分の手でねじを巻かないといけない気がした。


そんな折、相も変わらず脳内は正解の無い問いを勝手に作り出してはまた放棄する。人生は際限の無い自問自答とも言える。




意味への信仰

例えば「必然」と「偶然」という言葉の意味について。

日々を取り巻く人間関係において、人との繋がりを「必然」と考える瞬間がある。

生活を営むための仕事を、「偶然」辿り着いてしまった漂流地だと捉える時期がある。

解釈は都合よく切り取って、使い倒すのが幸せに生きるコツ。

どちらかを都合よくその時々のお皿に盛り付ける事が、(心の)健康に気を遣う事なのではないだろうか。


運命というロマンチックな言葉が普及して以降、「必然」と「偶然」の価値観がインフレを起こしてるみたいだ。

必然だろうと偶然だろうとあなたの目の前にいる人は、何も変わらない
それはかけがえのない存在であって、意味なんて寄せ付けないほどの強靭な事実だ


僕たちは、あまりにも"意味という宗教"を信仰しすぎてしまったのかもしれない。

意味を考える事は正しいけれど幸せではないと同時に、正誤は決して意味の有無を問わない

意味の見当たらない事象にこそ浪漫や可能性、ひいては究める価値があって、幸福への道はむしろそちらに延びている。

辟易とした日々の退屈の要因は、そこら中に意味が求められ過ぎてしまっている事に思えてならない。


成長への信仰

成長も正しいけれど、幸せと同義にはならない。

当然のことながら、成長の先に見える幸せもあるけど、どちらかと言えば異なった出発点から見える幸せを大切にしたい。

実を言うと、成長と呼ばれているものの正体は「ただの変化」なのではないかと疑っている。

得ることは失うことだ。
成長とは何かを得る行為をさすのだとしたら、同時に別の何かを失っているのは確かだ。だから成長とはあくまでも聞こえ良く変換された別の単語であって、本質は「ただの変化」なのだろう。

僕らは時間の経過と共に強制的に変化し続ける。
加齢、知識、経験など「変化」の要因は多岐にわたる。

当たり前に起きる「変化」を信仰する事に、まるで理想や大義は存在しない。

皮肉にも崇めなくとも、「変化」は勝手にやってきて傍若無人に振舞い続けている。

成長への信仰を捨てて自分が自分でしかないと受け入れられた時、人は化ける




意味や成長が見えない状態を生きれないのは人間の一番の弱さだ。
だから意味や理由を無理やり作ろうとしてしまう。

自己を受け入れる事は主体性の第一歩であり、その瞬間から世界は動き始める。
ギィィという音をたてながら重く古びたねじが息を吹き返すように。


それでは良い夜を
おやすみなさい

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