遠回りと朝の海
不眠症になってから朝への憧れは止まらない。
今朝は珍しく睡眠剤をうまく使いこなす事で早起きに成功した。
夜に思い出す人よりも、朝に思い浮かぶ人と生きていくのが正しいとさえ思えてきた。
ここ数年はいわゆる停滞が退屈な日常をさらに加速させていて、気付けばもう2024年も終わりかけている。
こんな時は積み上げられた悩みも思考も全部投げ出して仕舞えばいい。
何となく過去に書いた記事を読み返してみた。
どれも同じ事をずっと繰り返し主張している事が多かった。
ある意味、芯はブレてないとも言える。
けれど言葉や表現に緩急をつけながら、自分の言葉で語るような体温は正直伝わってこない。
語彙力や比喩で武装した強がりを、優しく削ぎ落としたくなった。
よく思われたいと思う癖は、本当に悪い癖だという自覚がかなり大きい。
シャツで着飾るよりスウェットで過ごす日々の方が、肩の力が抜けて自分をより自分たらしめる気がした。
海にはまた会いたいと思っていた。
最近観た映像作品の全てに海と煙草が出てきた。
きっと無意識に海を渇望していたんだろうなと感じた。
夏がいなくなってから湿度も下がって、心も体も渇ききっていた。今年はセブンスターが吸いたくなるような秋だ。
あえて遠回りをしながら歩く。
いつもの如くミラーレスカメラを首からぶら下げて、ゆっくりと徘徊した。
時間に囚われない心地よさが五臓六腑に染み渡り、自由という贅沢にうつつを抜かした。
空や海が青色であってくれて本当に良かった。
本当は違う色なのかもしれないけれど、それは大した問題じゃない。
今の自分に本当に必要なのは遠回りだった。
遠回りを楽しむ心の余裕を手に入れて、ままならない生活を続けていく。
あの頃のように、瑞々しい瞳で世界を見渡したくなった。
そうやって何度も立ち返る為に必要なのは、遠回りと朝の海。
やがては生活に潜む連続と断続の繰り返しを面白がってく。
押しては返す波のように。
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