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「永遠の詩2 茨木のり子」
初めて表紙の言葉を目にしたときは、しびれた。
それだけじゃなく、他にも噛み締めたくなる文章がたくさん見つかった一冊。
ただ、メンタルきてる人に「がんばれ」と言うのが酷なように、コンディションによってはむしろきついかもしれない。
今の私にとっては、茨木さんの凛とした強さが眩しくて、生きてきた時代の重みを噛み締めながら読めた。
導入部分で高橋さんが書いている「強靭でしなかやかな精神」は、まさにいま私がほしいもの。
以下、感想のようなメモです。
『対話』
星が光る真っ暗な空と、地上で儚げに光る花が目の前に浮かんだ。そこに佇む防空頭巾の少女。弱々しく佇むのではなく、憤り悔しい思いを噛み締めているような風景。
『ぎらりと光るダイヤのような日』
きらり、じゃなく、ぎらり。
良いか悪いか、幸せか苦しみか、そういう二択にするのではなくて、命を燃やした日。「本当に生きた日」。今の自分がやりたいことは、生きているならやろうと思うことであって、そのために生きていたいことではない。悔いはないけど、このまま新しい「ぎらり」がなく生きていくのもやだな。
『一人は賑やか』
健やかな自立がしたいと思う。
『みずうみ』
心の深いところに静かな湖をもつ。なんて美しいんだろう。
『兄弟』
切なくなるのは、もう二度と会うことのない他人の、知る術のない未来を思うから。でもこうやって行き交う人たちが、ほんの少し人生の一部として交差するのもまた煌めきのようで。
『自分の感受性くらい』
地に足つけて踏ん張るとき、自分自身に言いたい言葉。人は何かのせいで、心がぱさぱさになったり、気難しくなったり、苛立ったり、初心を消したり、絶望したりもする。なんでも自分で背負うことはないと、他の人には言いたい。
でも、喝を入れることで立っていられるときもある。そのとき用の言葉として、忍ばせておこう。
『知命』
自分に添えられてきた手を回顧する。
『木の実』
想像したことのない人生を差し出されて絶句。
『落ちこぼれ』
「和菓子の名につけたいようなやさしさ」という一文で、「落ちこぼれ」という言葉の美しい一面を知る。私は言葉を概念でしか捉えてなかった。
『この失敗にもかかわらず』
何かやらかしても、生きている以上は生きねばならない。
『寸志』
自分の日本人としてのアイデンティティは"日本語"に依存している部分も大きいと思う。でも"沖縄人"としてのアイデンティティは、日本人としてのそれより言語に依存はしていない…?
『時代おくれ』
「頭はからっぽのまま」情報を集めた結果が、Twitterの地獄絵図とかファスト学習でドヤ顔とかにつながっているのかもしれない。ゴツンときました。自戒を込め。
「モノローグよりダイアローグを」という茨木のり子と異なり、私はモノローグばかりだ。
それでも、頭の中でモノローグするよりは、外にだすほうが幾分かマシだろうと思ってここに書いている。
自分の背中を叩いて喝を入れたいときに、また読み返そう。