
嘘吐きの大人が嘘を付く子供を生み出す。
初めから期待も信用もしていないじゃないか。
大人というのは都合のいい嘘を付くわけです。その人の為を思って言う嘘もあるけれども、そうじゃない大人もいる。それが「嘘吐きの大人」。
その嘘吐きの大人としか会えなければ不幸へ一直線。なかなか救われることができません。まるで「呪い」のようなもの。
どうしたら、その呪いは解けるのでしょうか。
辻褄が合っているかどうか。
まず初めに、子供も大人もそんなに大差はない事に気付く。
誰でも条件を満たせば親になれるし、その責任をどう果たすかという事。
勉強をしている人が子供としっかり向き合おうとする人と、勉強をしていないで、子供と向き合えない人もいる事。当の本人も自分と向き合えていないのかもしれない。
ハッキリ言うと、大人の形をした子供が子供を育てることも可能という残酷な事実なのだ。
分からないものは教えることができない。
向き合うか、突き放すか。その二択になる。
分からないものはどうやっても分からない。だから嘘を付くのだ。
そこから学ぼうという意識があれば、その場限りの嘘は出来る限りしないのである。いやもはや嘘と本当の事さえ区別が付いていないのかもしれない。
死に怯えた6歳の僕を強く抱きしめたのが母親の向き合い方だった。
子供は馬鹿じゃない。知らないだけだ。
辻褄を合わせていけば「なぜ?」の先に答えを求めだす。じゃあ、フィクションだったとしても現実の自分は最終的にどこへ行ってしまうのかという答えを探しに出た。
ただ、怖かったのだ。自分の存在がなくなってしまう事に対して酷く怯えた
母親は何も言わずに強く抱きしめてくれた。それが母親の答えだった。
大人でも分からないことはある。だけど、今できる事をしたのだ。
嘘吐きじゃない。真摯に向き合ってくれたのである。
成人して様々な世界を見る。
適当な人間は思ったよりいるもんだ。驚いたよ。
「自分は考えすぎだったのか?」と思うくらい、ちゃらんぽらんでさ。
理論も理屈も存在しない暴論ばかりさ。もう何が何だかさっぱりさ。
とにかく意見がコロコロ変わる。上辺だからこそ、それが精一杯なのかもしれないけれどね。
最初から期待も信用もする気がなかったり、していなかったりの現実。
子供のように辻褄を合わせようとした。どうして分かり合えないのかなって
最初から期待していないのに、期待する素振りを見せたり、信用しているように見せかけて常に言葉の凶器を背中に隠しているだけだって気付いた。
そりゃ一本取られましたよ、最初からでしたか!という話。
長い時間を掛けようともそりゃいつまで経っても関係性は変わらない。
どれだけ努力をしたとしても、ゼロにどれだけ掛けてもゼロでした!
という話である。無駄な事はないけれど、他人とはそういうものである。
他人は変えられないのだから。
自分に対してはいくらでも掛ける事はできるけどね。無限の可能性です。
純粋無垢な人間相手でも疑う事ができる。
無理矢理でも辻褄を合わせようとしたら白くても黒いように見えてくる訳です。それが嘘吐きしかいない場所で育ってしまった人の考え方。
疑わないと自分を保てなくなってしまう人がいるのです。正確にはまた裏切られてしまったら、形を保てなくなる人かな?
刃物のように切り付ける存在になってしまうのです。
自分の存在を守る為に、疑い続けてしまう、そうして彼らもまた嘘吐きの人になってしまうのではないのかなって思っています。
「呪い」を断ち切る。
じゃあ、自分の代でその呪いを断ち切ればいいのです。
その事実を後世に伝えること。決して裏切らないであろう人間と「呪い」に対して話す事。「呪い」に対して、深く考え続ける事。対処法を考える。
打ち明ける相手を間違えれば、自分の傷は更に開くものだと思っています。
もしかしたら相手は言葉の凶器を背中に隠し持っているかもしれないから。
ただ、一つ言えることは無防備な状態で言葉の凶器を突き付けるというのは
「味方」ではない事。「中立」の立ち位置の人もまた卑怯ではある事。
安全な位置から見て見ぬフリをすることもまた共犯者と言えると思う。
他人は変わらない、変わりにくい。自分の限られたエネルギーと時間を比較して、「呪い」と向き合っていくのか。また後世に対してどういう言葉を掛けていくのか。
悩むのではなく、考えて、行動することが大事なんだと自分は思っている。
というより、答え自体は先に出ているのだから、自分が正しいと思う道にまっすぐ突き進めばいいのだと思う。
反対意見は言う事は簡単だからだ。そこに努力の有無は関係ない。
努力をしなくても言える事だから、気にする必要はあまりない。
反対意見をいう大人もまた、無責任な噓吐きの大人かもしれないからだ。