細心の注意で歳を召すから。アメリカ紀行
9月7日
ついにポートランドへ入る。
イエローストーンからずいぶんと長い距離を来た。空にはどんよりとした雲が立ち込め、重く気だるげにのしかかる。ハイウェイの近くには建物が増え、道端にはホームレスの姿がまばらに見え始めた。それは、ヨーロッパの街頭で感じたあの寂れた雰囲気のそれと全く同じ匂いがした。
乾燥してひび割れた大自然の世界から、潤いと静寂に包まれたグランドティトンへ下り、アイダホとジャガイモを越えて、月面でテントを張る。気づけば旅も終着へ向かい、ポートランドまではるばる来た。
そして、ようやく始めて「海外にやってきた感」を感じたのはなんだか皮肉だった。
雨が降り始める。灰色の世界に、よりいっそう陰鬱さが波紋のように広がっていく。私たちはとある老人ホームに車を停めた。先生の旧友のマリーとジムに挨拶をするためだった。
老人ホームの庭には緑が溢れ、リスが当たり前のように駆け回る。世界が少し和らいだように思えた。動物は生気を世界に与える。
快く出迎えてくれたフロントデスクの人に、二人が不在であることを告げられた私たちはまた後で来ると老人ホームをあとにした。回廊を歩きながら、気づいたら私は九州の療養施設に暮らす祖母を思っていた。
観光名物のSaturdayMarketを巡りながら、人の多さに面食らっている自分に苦笑した。普段歩きなれている新宿の方が人は多いだろうに。山に10日間も籠ったからだろうか。やたら雑踏から寒気を感じた。同時に、笑いかけてくれる人々や出店の人々に安らぎを感じた。そこで私は2枚の絵はがきを買った。
見たこともない景色のポストカードだった。ただ、無性に惹かれたのだった。
「これが上京の感覚か。」なんて思ったりして、曇天の空を仰いだ。なんだかそれがやたら心地よかった。
黄色い花を買った私たちは老人ホームへハンドルを切る。話が通っていたのか、二人はすぐに来るから待つように、とフロントで待つことになった。
出迎えに現れたのはマリーさんだった。しっかりとした足取りで先生に向き合った。瞬間、先生は破顔して彼女を抱き寄せた。先生の無防備な表情を初めて見た気がする。無造作で単純で、何かが溶けたような瞬間だった。この時から、何か暖かいものが心から少しずつ漏れだし、血液を伝わって、満ちて、沁みていく。
20年来の再会を喜び歩く二人を前に、私たちはマリーとジムの部屋にお邪魔した。「部屋がこれしかないの」と冗談めかしく文句をいうマリーに、施設に移ってから初めて訪ねた時の祖母の姿が重なった。部屋のレイアウトも、漂う雰囲気も、香りさえも。なんだか、初めて来るとは思えないようなデジャヴに襲われた。
身ぶり手振りで大きな声で話す先生と、楽しそうにそれに相槌を打つ2人を見ながら、私たちは横に座っていた。腹を伝っていた暖かい何かが、少しずつ染み込んでいく感覚に気づけば身を任せていた。体はここにあるのに、心はもう自分の九州の祖母を訪ねていた。マリーとジムが発する楽しげな静けさに、私は気付けば家族を重ねていた。
二人に別れを告げて、車へ向かうとき、すすり泣きの音が聞こえた。同行していた女子同級生の嗚咽だった。
「おじいちゃんとおばあちゃんを思い出して、、、、なんか雰囲気似てるなって。」
彼女が絞り出したのはそれだけたった。そして、「まだご健在なの?」という質問に、首を横に振った。
人は人だ。
同じ空を持ち、同じ大地に還る。
同じように愛を感じ、同じように時間を分かち、同じように誰かを思い出す。
そこに言語や距離は介在しない。
なぜ、世界が
ここまで、この世界を複雑にしてしまったのかを私は知らない。
ただ私は、世界はかくも美しいものかと、ただ思わされていたのだった。
今年雨が初めて降った日だった。
雨は人を静かにさせる。
息を吸って、吐く。
細心の注意を払って
丁寧に年を召していく。