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循環と持続可能性を考えてみる(その2)

はじめに。
持続可能性なんて言葉を聞くようになって随分と時間が経つ。
最近ではサスティナブルやSDGsなんて言葉もよく飛び交っている。

実は私はこれらに懐疑的というか、ちょっと違和感を感じている。
それは山での体験が源流となっていて、自分の根底に地下水のように流れている。

先日、コテンラジオのポスト資本主義シリーズで「持続可能性なんてない。あるのは循環だけだ」なんて話が出てきたの聴いた。

それをきっかけに改めて自分の考えをまとめてみようと思い、持続可能性と循環の話を書いてみる。


その1はこちら↓


循環の話

春日山原始林はブナの樹やクスノキを中心とした照葉樹林だ。
※照葉樹とは、葉の表面の角質層(クチクラ層)が発達した光沢の強い深緑色を持つ樹。

樹高20~30mにもなる(高さ30mはマンションだと10階建てぐらい)木々が、太陽の光を最大限浴びようと枝を伸ばし、隣り合う木々と日照権という領地の陣取り合戦でせめぎ合っている。

そうなると地面には太陽の光が届かなくなる。

太陽光が届かなければ、地面には植物が生えてこなくなる。

シダ植物のような日陰を好む陰生植物は生えてくるが、それ以外はなかなか勢力を伸ばせなくなる。

山に入った時に注意して見てもらうとわかるが、高い木々が生い茂り、日光を遮っていると、地面に近いところの植生は比較的に少なくて、落ち葉や地面が見えていることが多い。

だけど、高い木が生えていないところは、真夏だと草ボーボーに生えていて、人が踏み入れていないと道が無くなっていたりする。

つまり、春日山原始林の高木たちは自らが日光を吸収するが故に、地面への光の供給をシャットアウトしている。
そうすると自分たちの子どもが育つ環境も失うわけだ。

これでは少子高齢化社会。
滅びることが確定してしまっている。
高く伸びた老木を支え、なんとか倒れないように頑張るのが持続可能という取り組みだが、自然界ではそんな摩訶不思議なことは起きたりしない。

森は本当にうまくできているのだ。

パズルのピースのようにびっちりと凹凸を埋めるように枝葉を伸ばして、自然の屋根と化している春日山原始林でも、ぽっかりと穴があいている場所があることに注意深く見ていると気づく。

なぜ枝葉の屋根に穴があいているのか?
実はそこは老木が倒れた場所なのだ。

その老木が握っていた制空権が解放されて、独占されていた光が地上に降り注いでくれる。
そうするとそこには草花が伸びてくる。
どんぐりが落ちていたのであれば実生となって、ぐんぐん伸びていく。

倒れた老木の身体は分解者たちが土へと還す。
虫やキノコなどの菌類たちの重要な仕事だ。

虫や菌類が作る土は栄養と水を蓄えて、また植物を育てていく。

そうすることで森はどんどんと生まれ変わる。

森にあるのは持続可能ではなく、循環だった。
でも、私がそのことを強く感じるのに今までの話だけではまだ不十分で、循環と持続可能性の話はまだ続く。


外敵が起こす森の変化

嘉永6年(1853年)に浦賀沖に黒船が来航した。
もしも永遠に黒船が来航しなかったら。
江戸時代はどれだけ続いていただろうか?
少なくともあのタイミングで滅びたりすることはなかったのかもしれない。

人類の歴史で外敵によってどれほどの変化が起きてきたのだろうか。
多くの国が滅びたり、絶大な権力を誇った支配者が地に落ちたりしただろう。

この変化は人類だけではなく、自然界でも起きている。
そして、自然界での外敵の襲来の多くは人間によってもたらされている。

次回は外敵が起こす森の変化を循環と持続可能性の視点から書いてみる。

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