安部公房論ー埴谷雄高との共通項についてー
安部公房論ー埴谷雄高との共通項についてー
㈠
安部公房と埴谷雄高の共通項については、拙稿『安部公房論ーその奇怪なる小説推移ー ㈠』で、その生まれの特異性について述べているので、そこで書いたものは省いて行く。となると、問題となる共通項とは、執筆方法の事に、自然となって行くだろう。一先ず目に付くのは、文章の大量執筆方法であろうか。その無限的な、どこまで続くか分からないくらいの、執筆量は、他の小説家と比べても、埴谷雄高と安部公房は抜きん出ている。そのディテールとしては、文章の脈絡のない延々と続く、形式である。しかし両者は、そのことが得意なのであって、殊更に方法論とまではいかないだろう。芥川龍之介や太宰治などは、執筆の方法論を隠して居るので、研究者たちは、挙って、その原理批評をいくつも書いたのであるが、埴谷雄高と安部公房の場合は、思想文などで、半ば、自己の方法論を自白しているのだ。
㈡
例えば、埴谷雄高の場合、『埴谷雄高文学論集』の中の、『思索的想像力について』に置いて、こう述べている。
この様な執筆思想の実体を、埴谷雄高はものの見事に述べている。「わからない」作品、という自白。しかしそれでも、作品に成り得る訳である。自分が芥川龍之介のはっきりした文章から、この延々と続く、「わからない」作品に傾倒したのは、そこに執筆の自由を見たからである。埴谷雄高は、分かって貰わなくても良いのだから、それは文章の無限創造に、直結する、ということになる、これは大きな一種の発明だろう。「わからない」内容の羅列で、云わば知識階級を煙に巻くのである。実に面白い発明だと言わざるを得ない。
㈢
安部公房においては、『文学における理論と実践』の中に、こうある。
小説に着目して、この文章を理解すれば、満州における経験に基づく、砂漠へのノスタルジアが、感性的認識であり、日本に戻って学問をして形成された理論で以って、砂漠へのノスタルジアへと逆作用させた交互作用、即ち、『砂の女』の構成、これが、安部公房の表現=形式となる、という一つの例えが垣間見える。こういった、方法論の自白は、埴谷雄高がやった様に、安部公房も評論で、自白しているのである。あの、延々と続く『砂の女』に置いても、述べたように、方法論が駆使されて、表現されたものなのである。この自白というものを、埴谷雄高も安部公房も、丁寧にやっていることが、実に興味深い。
㈣
この両者の自白は、方法論の研究家に、何も発言させない意図が見える。こう言った方法論なのだ、と言われてしまえば、研究者は沈黙せざるを得ない。まさに、評論文において、自分の事を自分で批評しているのだから、我々も同調するしかない、と言った具合である。また、述べている方法論を後世の小説家は理解は出来ても実践してはいけない。実践すると、埴谷雄高や安部公房の模倣になってしまうからである。見事に用意周到な、この自白性には、関心せざるを得ないし、有無を言わさぬ形式的力学が、ここには見出せる。これは確かに、文学史における、大きな文学的側面であった。志賀直哉における、純粋な執筆形式などには、方法論もなにもない。ただ、事実を其の侭述べているのであって、在りうべき執筆方法かもしれないが、そこに発明や実験というものは見えないのであって、芥川龍之介や太宰治は、述べたように、方法論を隠していたが、この流れから、文学史において、埴谷雄高や安部公房は自白する。前者があったから、後者があった、とも理解出来るが、やはりこれは、一つの流れとして理解すべきであろう。
㈤
安部公房論ー埴谷雄高との共通項についてー、という事で述べて来たが、何度も述べた、両者の方法論の自白性には、文学史上、着目して置かなければならないと思ったので、この様に述べてみた。結果的に、振り返れば、両者の方法論を或る程度的確に見据えられる箇所を、両者の評論から引用抜粋出来た様に思う。初めに題目を、安部公房論ー埴谷雄高との共通項についてー、と決めた時は、方法論の抜粋が上手く運ぶか不安でもあったが、それなりに形になって、安堵している。安部公房を見出したのは、埴谷雄高である、このことが、安部公房論ー埴谷雄高との共通項についてー、という内容を書く発想の起点になったのだが、方法論の自白というものが、如何に両者にとって必要だったのかどうかは、明白ではない。ただ、文学史に刻まれる、事実ではある。現代の小説家たちは、もう方法論の自白などせずに、ただ小説を書いて居る。現在、安部公房が着目されていることを踏まえれば、この、作家の方法論、というものに、一度立ち返り、自己の方法論を見直したり発展させたりする、良い機会を、安部公房は提示しているとは言えまいか。それが、安部公房が改めて今評価される、一つの意味、と成り得ると思っている。これにて、安部公房論ー埴谷雄高との共通項についてー、を終えようと思う。