かいわれのせか
評論・小説、において、販売している作品のリストです。
『上っ面研究記』 文字通り、研究記とは言え、上っ面のものです。しかし、上っ面であっても、全力で書きます。そんな、このマガジンは、『上っ面研究記』。
『一日、一杯の缶コーヒー』 一日、一杯の缶コーヒー、についての、語りの様な小説。全15話。
萩原朔太郎を、印象批評に留まらず、様々な形式で批評する、萩原朔太郎論集。
連作の小説、『猫と不条理』の場。
『黒木渚論』ー黒木渚、その孤高とユーモアについてー かいわれのせか 『はじめに』 今回の本論、ー黒木渚、その孤高とユーモアについてーは、まずこの文章を【序説】とする。【第一章】は、様々な角度から、黒木渚について述べてみた。どこにも発表していないものばかりである。また、【第二章】は、やはり、今迄通り、エッセイ調である。『黒木渚、MVに見る動き』、『黒木渚論・・・その位置』、『黒木渚さんの、グッズ、行灯』、の3論は、既出のものだとお伝えして置く。【最終章】は、『おわりに』と
上っ面研究記⑵「平家物語」 ㈠ 自分は、大学院の時、近現代の日本文学を研究していた。焦点を当てて居たのは、芥川龍之介の晩年である。『歯車』、『玄鶴山房』、辺りの論を書いて居たのだが、勿論、ゼミで様々な院生や研究員の発表を聞いたし、発表される作品は読んで臨んで居た。太宰治、夏目漱石、内田百閒、島崎藤村、萩原朔太郎、他にも様々だったので、勉強になったことは確かだった。 ㈡ ところで、院に行って居ても、受講して単位を取るために、古典の講義、語学の講義など様々あり、中でも印象
上っ面研究記⑴「オフィーリア」 ㈠ 最近の文學界で、市川沙央さんが、『オフィーリア23号』というタイトルの小説を載せていた。まだ、内容を読む前に、この時、とっさに浮かんだのが、小林秀雄の『おふえりあ遺文』だった。オフィーリアとは、オフエリアと、同音だなと思った。無知な自分を晒す様だが、オフィーリアとは、シェイクスピアの四大悲劇の一つ『ハムレット』に登場する女性であるらしい。シェイクスピアは、『マクベス』しか読んで居なかったため、気付かなかったのだ。すると、太宰治の『新ハム
『俺は失敗作』/連載 『俺は失敗作』の連載が、10回で、終りになりました。第一期の終了ということで、また、機会が有れば、第二期も書くかもしれませんが、今のところ、未定です。noteに戻って来たので、また、様々に書くかもしれません。『俺は失敗作』の、一先ずの終了を記して置きます。
note/『俺は失敗作』 noteに、戻って来ました。『俺は失敗作』という小説を、小説家になろう、と同期しながら、書いて行こうと思います。どんな風になるかは、未定ですが、書けるだけ、書いて行こうと思います。当分は、『俺は失敗作』の身の、更新になります。
1『俺は失敗作』 ㈠ 気付くのが、随分遅すぎたみたいだ。粘土で出来た壁を越えることくらい、簡単だと思って居た、という訳だ。何やら、漆黒の病魔が、俺に痛烈に襲い掛かって来たかと思うと、思うが早いか、俺の身体は、浸食され始めた。 どこに繋がるかも分からない、精神の扉を閉じて、右往左往する、ベテランの老人たち。俺は、眩暈がするので、上方を見ない様にし始めた。何、生きるさ、死ぬにはまだ早い。自己の変革のために、少々、言葉を使って、人を欺いてみるか、みないのか。 2『俺は失敗作
『しばらく、noteを、休みます』 ㈠ 生活が忙しくなって来たので、しばらく、noteを、休むことにしました。別段、この様な報告はしなくても良いことかもしれませんが、定期的にいいねを頂いている方がいらっしゃるので、書いて置きます。 ㈡ 勿論、完全に止める訳ではなく、一応、しばらく、と言って置きます。今後どのような形で、noteに関わるかが、未定という感じです。また、すぐに戻ってくるかもしれませんが、しばらくは、休みます。 ㈢ 今年は、安部公房論30論を書き上げ、そ
収集家宣言/日常 収集家として、日常を送ることを、宣言します。それにあたり、日常の時間を収集家として使うために、次に書きますが、しばらく、noteを、お休みします。ここ最近書けていなかったので、実際、予兆はあったと思います。またすぐ戻って来るかもしれませんが、一応の宣言です。
『一日、一杯の缶コーヒー』その15 ㈠ この小説も、ここで一先ず、終りを迎えることになる。13から14まで、随分感覚が空いてしまったが、実際のところ、その要因は、缶コーヒーを飲まない日が出来て来たからである。 ㈡ その様な状態で、『一日、一杯の缶コーヒー』を、書き続けるには、やはり無理があるというものだ。飲んでないのに、飲んでいる、というのも、何か神に背く様なので。
『一日、一杯の缶コーヒー』その14 ㈠ もう、一日、一杯の缶コーヒーを飲まなくなった自分であるが、とにもかくにも、健康のことを考えて、そんな風に生活しているんだ。このシリーズも、途中で終わってたから、再開してます。 ㈡ それにしても、何かを続けるというのは、やはり根気が必要だな、と改めて思いますし、当時を振り返ると、一日、一杯の缶コーヒーで、満足出来て居た頃が懐かしい。
日々/國文學の収集 収集家をやってますが、最近は、國文學の収集に力を入れて居ます。最近では、萩原朔太郎、太宰治、そして、芥川龍之介を購入しました。芥川龍之介に関しては、これからも良さそうな特集を探して、購入していく予定です。貴重な論が載っているものもあり、楽しみです。
萩原朔太郎論ー詩人を論じる難しさ、総括ー ㈠ 萩原朔太郎論も、10論目となり、今回で終わりとなる。詩人を論じることは、非常に難しいことだと、論じてみて改めて思った。様々な角度から述べると初めに宣言したが、確かに、少し風変りな、萩原朔太郎論になったと思われる。自分は、やはり、萩原朔太郎の詩を、楽しみで読みたい。芥川龍之介、小林秀雄、埴谷雄高、安部公房、この辺りは、非常に論じ易いのだが、萩原朔太郎を論じるのは、何度も述べるが、非常に難しい作業だった。 ㈡ 解釈と鑑賞の、萩
萩原朔太郎論ー『月に吠える』からー ㈠ 萩原朔太郎が世に出た詩集『月に吠える』には、実に様々な詩が詠われている。特に、『竹』や『猫』などは、特徴的で、様々に論者によって論じられて来た。そこには、日本文学と日本語学の両方を必要とする論じ方が必要になるという現象が起こっており、必然だったように思われる。もうほとんど述べ尽くされたであろう、『竹』や『猫』を、もう一度論じるつもりはない。ただ、日本独特の伝統というものを、口語自由詩の確立者である萩原朔太郎は、如実に継承したと言える
萩原朔太郎論/あと2論 萩原朔太郎論も、あと2論になりました。随分思考していた当初よりは、書き易かったですが、詩の本質に迫る詩論ではなく、飽くまで萩原朔太郎その人についての、論になったと思われます。残り2論、どんな形式になるかは分かりませんが、頑張って書こうと思います。
萩原朔太郎論ー伊東静雄を認めたことー ㈠ 伊東静雄が発行した、『わがひとに与ふる哀歌』を、萩原朔太郎は「日本にまだ一人、詩人が残っていた」と賞賛したことは、周知の事実として、詩壇では良く知られている。萩原朔太郎が好みそうな理由が、『わがひとに与ふる哀歌』を読んで居ると、良く分かるのである。インテリでありながら、所謂、孤独というものに依拠し、それでもなお、絶望から希望を見て、希望を掴もうとする、その様な態度は、恐らく、萩原朔太郎が幼い頃持って居たものであり、『わがひとに与ふ
萩原朔太郎論ー憂いのある写真ー ㈠ 萩原朔太郎の、現存している写真は、沢山ある。白黒だが、何か憂いのある表情をしている。幼い頃から、神経質かつ病弱だったようで、なかなか、周囲ともうまく行かなかったようである。いわゆる、孤独というものを知ったのだろう。写真の萩原朔太郎は、ほとんど笑顔がない。不満がある、というよりは、実際、孤独感に悩まされていたのかもしれない。進学も上手く行かなかったようだが、やはり詩については特別に抜きん出て居たようで、頭角を現すことになる。 ㈡ 詩壇