我が家の洗面台は水捌けが悪い

我が家には洗面台が2つある。

そのうちの1つは、2年前からずっと、水捌けが悪い。歯磨きをし終え、10分後に再び洗面台へ行くと、まだ泡が浮きっぱなし、なんてことがザラにある。
しかし、2年間、そのことに関して、家族は誰も文句を言わないし、直そうともしない。もう片方の洗面台を使えばいいから、という単純な理由ではないと最近気付いた。


2年前、我が家の愛犬が亡くなった。名前をコタロウとしておく。

僕が小学校に上がると同時に、赤ん坊だったコタロウを飼い始めて15年間。半生以上、ずっと一緒だった。
全世界の飼い主が思うことなのだろうが、言っておきたい。コタロウは、大きな黒目がチャームポイントで、他のどの犬よりも群を抜いて可愛いかった。散歩が大好きで、名前よりも「散歩」という単語に反応し飛び回る様子は、思い出すと今でも笑ってしまう。

特別賢いわけではなかったが、人の心がわかるというか、空気を読めるというか、どこか人間くさい犬だった。
家族で小競り合いをしているとリビングからふらりと離れ、解決するとひょっこり戻っていたり、家族がテレビを観ている時は、いつも一緒になってじっと画面を見つめていた。


そんなコタロウは10歳になり糖尿病を発症した。
病気が発覚してから毎日、朝晩の注射、食事制限。5年間、本当に長かった。
治療の実害のない家族でも、長いと感じたのだ。痛みを伴うコタロウはどんなに長く感じただろう。素人の注射を朝晩2回も打たれ痛い思いをし、出てくる食事はそれほど美味しくもない糖尿病用の缶詰のみの5年間を。

一説には、犬は人間よりも痛みや味をあまり感じていないといため、注射や、毎日の同じ食事もそれほどストレスではないという。
しかし、人間くさいコタロウだからこそ、人間の僕が想像する不平不満を、そのままに抱えているかもしれないと思っていた。
そして、何故そんな仕打ちをされているのか理解できておらず、恨んでいたかもしれないとも思っていた。


コタロウは15歳になり、長い糖尿病との戦いで弱りきっていた。ずっと横になり、大好きな散歩も途中で座り込んでしまうようになった。

なにより、目やにが増えた。
綺麗な状態から3日もすると、目が閉じっぱなしになる量の目やにがついてしまう。チャームポイントの大きな黒目が見えなくならないよう、洗面台へ連れていき、必死に掃除した。
老犬は涙の量が減るため、目の老廃物を流し出せずに目やにが増えるらしい。辛いのに涙も出ないコタロウの状況を考えると、こっちの涙が出てしまう。


大好きだった散歩にも行けなくなり、ご飯も自分では食べられなくなってしまった頃。
獣医に電話で、コタロウの現状を伝えると、コタロウは2週間入院することになった。
「入院中に亡くなる可能性も覚悟しておいて欲しい」
と言われた時は、目の前が真っ暗になるとはこういうことだったのだと知った。


病院に連れて行く前に、せめてもと目やにを掃除して送り出すことになった。
コタロウを洗面台に連れていき、家族全員で目元を洗う。洗面台の前でギュウギュウになりながら、全員が濡れたティッシュを片手に飼い犬の目やに掃除をしている様子を俯瞰で見ると、あまりにも非効率なことをしていて笑ってしまう。

でも許して欲しい。家族で過ごせる最後の時間かもしれないのだ。1秒でも長くコタロウと触れ合っていたいではないか。

いつもは洗面台にティッシュが流れないよう丁寧に洗うのだが、洗面台が詰まるリスクなど取るに足らない問題だったため全く気にしない。

当然、ティッシュは流れに流れた。

綺麗になったコタロウを病院へ連れていき、2週間後また会おうと約束して別れた。




再会は5日後になった。
嬉しい再会ではない。


もう治療をしても改善されないため、治療より家族との時間を取ることになったのだ。

久々に家族が勢ぞろいしたが、もちろん気分は良くない。しばらく、昔撮った写真を眺めたり、思い出を話したりしていたが、しんみりしていたらコタロウに不義理なように感じ、楽しい時間を過ごそうと、皆でテレビを見ることにした。

その日は、のちに史上最高の決勝戦と言われることになる、ミルクボーイが優勝したM-1グランプリが放送されていた。
こんな時こそお笑いが観たい。チャンネルをM-1グランプリに合わせる。
コタロウも少し目やにがついた目で、いつものようにじっと画面を見つめていた。

全組笑った。こんな状況の家族に笑って時間を過ごさせるなんて、芸人の人達は凄すぎる。
楽しい時間に満足したか。翌朝コタロウは亡くなった。
当然、時は戻らない。家族全員で泣いた。



あの日から、我が家の洗面台は水捌けが悪い。

しかし、洗面台が、あの日大量にティッシュを流し詰まらせてしまった洗面台だけが、コタロウとの目に見える繋がりになっているから、家族は誰も文句を言わないし、直そうともしないのだ。

今朝も誰かの歯磨き後の泡があった。水捌けが悪いのだから、こんな洗面台なんて使わなければいいのに。

僕はそのまま、歯磨きを始めた。