「セーヌ河岸に始まるパリ2000年の歴史」世界遺産の語り部Cafe #7
今回は、フランス🇫🇷の世界遺産【パリのセーヌ河岸】についてお話していきます。
パリを彩る構成資産の数々
世界遺産であるパリのセーヌ川河岸における登録範囲は、シュリー橋からイエナ橋までの約8km、それに加え、中州である「シテ島」、「サン・ルイ島」や区域内に架かる橋も含まれています。
セーヌ右岸では「パリ市庁舎」を始め、「ルーヴル美術館」、「シャンゼリゼ通り」を含む「コンコルド広場」(「エトワール凱旋門」は登録外)、さらに「シャイヨ宮」などが範囲に含まれています。
セーヌ左岸では「エッフェル塔」、さらには「アレクサンドル3世橋」やシテ島の「ノートルダム大聖堂」など、数々の美麗な建築物が世界遺産の範囲に登録されています。
パリ2000年の歴史
芸術や文化が栄え、「花の都」と称されるパリの語源は、パリ発祥の地とも言われるシテ島に定住していた「パリシイ族(Parisii)」からきています。
古くはユリウス・カエサルの著した『ガリア戦記』で、パリシイ族に関する記述があります。
すでに紀元前1世紀の段階で彼らはシテ島に住んでいたといい、かつてその地はラテン語で‘’泥‘’に由来する「ルテティア」と呼ばれていました。
『ガリア戦記』によれば、パリシイ族はローマ軍を相手に勇敢に戦ったガリア人の英雄、「ウェルキンゲトリクス」に加担したことが言及されています。
その後、ローマによる占領を受けたルテティアは、街の名をパリシイ族から取って「パリ」と改めることになります。
ローマ帝国の滅亡後、ガリアの地を制圧した「フランク王国」の王「クローヴィス」は、セーヌ川中の小島を「シテ(首都)」と宣言したことから、その地は“首都の島”を意味するシテ島と呼ばれるようになりました。
パリ近代化の立役者
現在のパリの姿は、19世紀にセーヌ県知事の「ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン」が在任中に掲げた「パリ市街改造計画」によって、急速に近代化されたことが原型となっています。
19世紀当時、シテ島はもはや貧民街と化していましたが、オスマンの都市化計画によって大幅に整備され、屈指の観光名所となったことから、一連の改造計画は「オスマン化」などと称されることがあるそうです。
再建待たれるノートルダム大聖堂
シテ島の観光資源といえば、やはり「ノートルダム大聖堂」が有名ではないでしょうか。
しかし、私たちの記憶にも新しい2019年の火災により、残念ながら聖堂の大部分が焼け落ちてしまいましたよね。
歴代フランス王たちの戴冠式が行われ、フランスの魂ともいえるノートルダム大聖堂の起源を辿っていくと、12世紀にパリ司教を務めていた「モーリス・ド・シュリー」という人物に行き着きます。
「我らが貴婦人(Notre-Dame)」という意味を持つ大聖堂の建設は、1163年にフランス・カペー朝の国王ルイ7世が臨席のもと、時のローマ教皇アレクサンドル3世が礎石を置いたところから始まります。
パリ司教として、ノートルダム大聖堂の建築を執り仕切っていたシュリーは、当時としては最も高さのある聖堂を完成させようと目論みます。
建築には、12世紀時点でまだ真新しかった「ゴシック様式」が採用され、空中にアーチを架けた飛梁である「フライング・バットレス」や、「リブ・ヴォールト」と呼ばれる天井様式を駆使して、高さを出しながらも耐久性のある設計が施されました。
内装の美しさも見所で、「バラ窓」と呼ばれるステンドグラスの装飾も特徴的です。
シュリー自身は、建築工事の竣工を見届けることなくこの世を去りますが、1250年にノートルダ厶大聖堂はついに完成を迎えます。
築850年という長い年月が流れる間、ノートルダム大聖堂は「百年戦争」や「フランス革命」、二度に渡る世界大戦を乗り越えてきました。
大聖堂は、火災による被害から未だ復旧の途中ではありますが、ただし彫刻家ニコラ・クストゥが手掛けた、主祭壇上の「ピエタ像」は奇跡的に難を逃れれています。
パリのノートルダム大聖堂には、私も火災前に訪れたことがあるのですが、その巨大さと荘厳な雰囲気には圧倒されました。
きっと同じ想いでおられる方も沢山いらっしゃるかと思いますが、再びシテ島で壮麗に輝く大聖堂の姿を早く見せて欲しいですよね。
【パリのセーヌ河岸:1991年登録:文化遺産《登録基準(1)(2)(4)》】