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『マリンバとさかな』 第三話_前半

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 茜音がいなくなってから、オレの一日は何も起こらなかった。

 朝になると茜音の母親が部屋のカーテンを開けにきて、ついでに水槽にエサを落とす。日が沈むと、カーテンを閉じにきて、再び水槽にエサを落とす。一日が終わる。

 

 朝が来る。エサが降ってくる。暗くなる。エサが降ってくる。一日が終わる。
 朝が来る。エサが降ってくる。暗くなる。エサが降ってくる・・・・・・・・・・・・。

 そうか、これはただの地獄の始まりに過ぎなくて、オレは、命が尽きるまで、この、言葉にし難い傷を抱えて生きていかなければいけない。

 朝なんて来なくて良い。

 夜が明けたときの、また、同じ24時間が始まってしまったと自覚するあの瞬間が一番苦しい。

 

 

 さかなは、茜音がいなくなったことをひどく悲しんだ。それでも、自らエサを拒んだり、水槽から身を投げたりといった、命を終わらせることはしなかった。できなかった。どれだけの悲しみを抱え込んでも、“生きる”ことは止められなかった。生きてさえいれば、もしかしたら、もしかしたら茜音がまた帰ってくるかもしれない。そんな小さな願いを持ち続け、なんとか生きようとしていた。けれど、何も変わらない機械的な一日が永遠に続くことを受け入れるのは、そう簡単な話ではなかった。オルゴールが止まったらネジを巻き直すように、一日の終わりになると、神様がカチカチカチッ、カチカチカチッ、カチカチカチッとゼンマイを巻き戻す。すると再び、同じ曲が頭から再生される。何度も何度も再生しているうちにシリンダーの突起部分が擦れてきて、メロディーが少しずつ崩れていく。さかなにとっての季節や天候の変化なんていうのは、そんな小さな違いに過ぎなかった。

 はずだった。

 

 

 ドーーーーーーーーーーン。ゴロゴロゴロ。

 今朝は雷の音で目が覚めた。

 ゴロゴロと数秒おきに音が鳴り、滝のような大雨が部屋の窓を叩きつける。

 ピカッ。シーーーン。ドーーーーーン。

 ゴロゴロゴロ。ザザァー。シャー。ポテポテポテポテ。

 テン。テン。テン。テン。ドーン。ズドーン・・・・・・

 次々と鳴り響く雷鳴は、まさにオレの心情を歌っているようだった。それは正しくもあり間違いでもあった。今のオレは、決して雷のような激しい感情は持っていない。ただ、ひたすら雨に打たれていたい気分だった。

 そういえば・・・、茜音もよく土砂降りの雨のなか、びしょ濡れ姿で帰ってくることが何度もあったよな。拭きたてのボサボサな頭でマリンバを弾いていると、あとから帰ってきた母親からさらに雷を喰らっていたんだ。

 茜音の住んでいる場所も雨は降っているのだろうか。

 ひどいのだろうか。

 マリンバは弾いているんだろうか。

 雷の音はますます近くなり、雨足も強くなってきた。このまま家中が水浸しになってくれれば、水槽から飛び出して茜音のいる〈とうきょう〉とやらへ泳いでいけるだろうに。

 ・・・そんな夢は叶いっこない。

 窓の外を眺め続けた魚は、ふと我に返り、口をへの字に曲げたかと思えば、ゆっくりと水槽の中を大きく一周し、隅に置かれた岩場の陰で停滞した。

 

 

 つきつけられた現実は、頭ではわかっていても、心ではまだ受け入れられない。

 この前の雷がひどかった日、その日の雨音を思い出して、ふいに茜音のマリンバが聞きたくなってしまってしょうがない。

 全身を寂しさが襲う。声を出したくても言葉が詰まる。オレも人間のように涙が流れちまえばラクなのに。そんな風にさえ思ってしまう。

 こぼしたい涙は、いつまでも流れてくれない。

 

 あの日からずっと、オレの体内にモヤモヤが住みついている。

 太陽はずっとどこかに隠れていて、姿を見せちゃくれない。

 光を探している。オレだけの光を。光の方へ、辿り着きたい。

 暗がりの迷路をずっとさまよっている。

 いつまでも、閉じ込められている。

 

 日に日に心がいっぱいいっぱいになって、叶わない夢にすがる気持ちが積み重なる。

 オレはいま、沈んだ心をくいっと浮かせてくれるようなひとときが欲しい。

 日はとっくに落ちたはずなのに、部屋がうっすら明るく見える。もちろん、部屋の明かりなんてついていない。レースカーテンの遠くの方に目をやると、白く光る月がうっすら見えた。

 「また、聴きたい。」 

 叶うカケラも望みもない、無謀な祈りを夜空に願う。

 

 やる気も出ない。

 泳ぐ気もない。

 ただ時間が過ぎるのを待っているだけ。

 動こうと思っても、5秒も経たないうちにまぁいいかと思考が停止して狭いところへ閉じこもる。

 暗い、水槽の隅っこへ。

 

 ズキン。

 忘れよう、忘れようと思うほど、頭の中に眠っていた記憶の音が鮮明に巻き戻される。

 心臓の奥がキリキリして苦しい。食欲はとうに失せた。

 まるで、水槽のガラスの厚みが何倍にも増して、オレの身体を押しつぶそうとしているようだ。

 行き場のない苦しみがオレをつきまとう。抜け出せない。抜け出せない。どこに抜け穴はあるんだ。傷は?ガラスにひびは無いのか。どうしたらいいんだ、どうしたらいい。早く、早くこの日常から抜け出さしてくれ・・・。

 カッと頭に血が上って、タコやイカが墨を吐いたような、黒い言葉が脳内をかき乱す。

 心の底からヘドが出る。

 

 目が覚めても、心は晴れない。

 一瞬、一瞬はしのげたとしても、少しでも他のことを考えたり泳いだりしていないと気が紛れない。反射する水槽ガラスに傷だらけでボロボロな自分が映って見えて、身も心もどうにかなってしまいそうだ。

 

 この前、頭に血が上ったとき、オレはぐるぐると水槽の中を激しく泳ぎ回っていたようだ。当然そんなこと覚えちゃいない。なぜ知ったのか。それは、今までは全く感じなかった他のヤツらの視線を急に感じるようになったからだ。そして、すれ違い様に吐き捨てるように言葉を浴びた。

 汚物を見ているかのような、冷たい視線。オレの横をすれ違う時に、目ん玉だけギョロリと動かして過ぎ去るヤツら。昔は一緒に群れていたはずのヤツら。

 もう、おまえらのことなんてどうでも良い。

 互いに命尽きるまで、もうきっと、交わらない。

 

 

 一度思い出してしまった美しい記憶は、呼び起こせば呼び起こすほど、自分にとって都合良く磨かれる。丹念に磨き上げたその記憶は、まるでショーケースに入れられた宝石のようだ。今のさかなはまさしくそれを繰り返している。自分で磨き上げた宝石を、自らが門番になって大切な記憶を守っている。時間が経てば自然と忘れられるはずの記憶を、毎日毎日見返すことで、忘れないようにしている。そのせいで苦しんでいることに気づかずに。

 哀しみと共に過ごす地獄の日々は、自分で止めない限り、途中では止まってくれない。片道運行の列車に乗せられ、ただひたすらに果てしない旅を続けているようなものだ。いつかはたどり着くであろうの終着駅を求めて、いつまでも揺られ続けている。

 

 見せかけの強がりをまとうことすら億劫になったさかなは、今日も胸の奥に宝石を抱え、眠りについた。


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