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中島敦著『名人伝』読書感想文

主人公の紀昌は弓の名人を目指すべく、常軌を逸した修行に身を費やす。その結果、人知を超えた能力を手に入れ、師である飛衛に並ぶほどの弓の腕前を身につける。この時点において、確かに彼の弓の腕前は名人と呼ばれるに相応しいものかも知れない。だが、行き過ぎた修行の果てに、瞼の筋肉の使用法を忘れ常に目は大きく見開かれ、蚤を馬の様な大きさで見ることができる彼は、私の目には名人ではなく、まるで化け物の様に映った。

あらゆる芸には、"技術の落とし所"がある。至高の技術というものは確かに存在する。だが技術を追求する事は、その方向性を見誤ると本来求めていた筈の芸の真髄とは程遠いあられもない姿となる。

例えば、"速さ"を追求する音楽がある。確かに"速さ"は我々に興奮と快楽をくれる。だが、速さのみを徹底して追求した演奏が最終的に行き着く先は、ザーーーーーーーーっというノイズである。全ての豊かな音楽が、テープで早送りをすれば総じてキュルルルルルルルッという全く同じ音になる様に。超絶技巧の行き着く先は総じて滑稽だ。

行き過ぎた修行の果てに、師の殺害を試み、その目論見が破れると道義的慚愧の念に取り憑かれる彼の姿は、そんな醜い滑稽なノイズの様だった。機織り台の下で目を開けたままじっとしたり、窓にぶら下がった蚤をひたすら睨み続ける彼の姿は、まあまあ笑える。これが滑稽ではなくて何か。

そんな彼が甘蝿老師の元での修行の後、別人となって姿を現す。ここでの9年間での修行については一切描かれていない。その内容は恐らく凡人には到底理解に及ばないことなのだろう。あるいは物凄くシンプルなことなのかもしれない。少なくとも、以前の修行の様に肉体的に壮絶な(滑稽な)修行が行われたとは考えにくい。そしてそれは彼に内面的な変化を与え、弓に取り憑かれた彼が抱える呪いを振り払った。

あらゆる修行を潜り抜け、彼が最終的に達した境地とは、一体どういったものなのか、最後まで私には理解する事が出来なかった。しかし一方であらゆる芸において、技術を超えたその先に存在する境地なるものがこの世にはある事を私は想像する。

以前の様な精悍な顔立ちはなく、木偶の如く愚者の顔になっていようとも、彼のその姿は以前とは違い全く滑稽ではなかった。

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