プリーモ・レーヴィー著『これが人間か』読書感想文
これが人間であるのか、それとも、人間ではないのか、私の中で答えは出なかった。
人間とは何か、という考えそのものが破壊された世界を、私には到底理解できなかった。
ヘフトリングの生活も、その先の運命も、同じ人間のものとは思えなかった。人間を人間として扱わないラーゲルでのあらゆる残虐行為も、それらを支えるナチの思想も人間の仕業とは思えなかった。人間にその様な可能性が秘められている事実を信じたくなかった。それを信じてしまうと、自分の中の何かが壊れてしまう様な気がした。だが、それらは確実に人間によって人間に行われたものであり、そして1人の独裁者によってだけで行われたのではなく、どこにでもいる普通の人間によって行われたのだ。
強制収容所に関する本、と聴くと、何か感情的な説教をされるんじゃないかと、私なんかは身構えてしまう。だが、著者は体験したことを静かに淡々と語る。ファシズムが行き着く果ての世界を、読者に問いかける様なこの物語に、知性を感じた。少しでも多くの事を、著者が命を懸けて語り継いだ言葉から、学ばなければならないと思った。
様々な人達との出会いと、その関係の中で、著者は自己を保ち、生き延びる意思を持ち続けるが、中でもエリアスという人物が1番印象に残った。著者が唯一、ラーゲルでの生活が幸せそうに見えた人物だ。彼は狂っているのだろう。だが、狂っている、の一言では済まされない、彼の魅力の様なものを文章から感じた。何より、力がなく、不器用な科学者だという著者とは対照的な、筋肉質で何でも器用にこなす、生まれながらの泥棒のエリアスについて、著者が語る言葉は、どことなく誇らしげで、著者のエリアスに対する憧れの様なものを感じた。知性や理性とは相反する位置に存在するであろう、エリアスという存在が、著者のラーゲルでの暮らしの中で、ある種の支えになっていたんではないかと思うと、如何に人間というものが、そして、人間社会というものが複雑であるのかを知った。それは強制収容所を語る時も同様に、如何に安易に感情論や数字だけでそれらを語るのが危険であり、我々はそれらを前にした時、理性と想像力を持って語らなければならないのだと知った。エリアスという人間は私の想像力を遥かに超えていた。
ファシズムの萌芽を、生活の節々で感じる事がある。路上やメディアからは、毎日の様に扇動を煽る大きな声が聞こえてくる。そんな大きな声に自分自身が惑わされない様、日々、小さな声に耳を向け、静かに且つ慎重に、そして想像力を持って真実を見極める力を養っていきたい。