【読書感想文】イ・ドウ『私書箱110号の郵便物』
どうも人間というのは忘れっぽい生きものらしい。朝晩ちょっと肌寒くなっただけで、もう今年の夏のいつまでもだらだら暑かった日々のことを忘れそうになる。
ここ日本には四季というものがありまして、なんて言っていたのもいまはむかし。ここ最近は一年の半分近くを夏が占め、そこに春と秋とが申し訳程度にこびりついているといった印象だ。
じっさいこの夏をふりかえると、やたら猛暑とゲリラ豪雨ばかりが思い出される。長かったわりにいっこうに記憶に残らないのは、趣きを欠いたその大味さゆえかもしれない。
そして、四季が失われ天気が単調になれば、そこに暮らす日本人の情緒にもどうしたって影響が出るのではないか。
驟雨、小糠雨、炎暑、溽暑…… たとえば永井荷風の日記など拾い読みしていると、天気の表現のそのバリエーションの豊かさに感心させられる。
まだ四季があったころの日本人は、雨にせよ暑さにせよ、こんなにも多彩な表情をもつお天気とともにあったのかといまさらながら驚き、思わずため息をついてしまう。
先日、韓国の作家イ・ドウの『私書箱110号の郵便物』という小説を読んだ。
おなじ作家の作品でドラマ化もされた『天気が良ければ訪ねて行きます』同様、この物語もまた内向的な気質をもつ男女が主人公だ。
『天気が良ければ~』は冬の寒村にたたずむ一軒の本屋が舞台だったが、この物語ではソウルのラジオ局を舞台に、ディレクターで詩人の顔ももつ33歳のイ・ゴンと、31歳になる放送作家コン・ジンソルという不器用なふたりの恋愛が描かれる。
傍目にはお似合いのカップルだが、“内向型”の性格というのはなにかと面倒くさいものである。ぼく自身、MBTIは「I」型なのでよくわかる。
あるとき、ジンソルの「わたしはトゲのある関係がすべて嫌なんです。静かで心穏やかなのが好きなだけです」という言葉にゴンはこう返す。「もちろん、そうでしょうとも。気の小さいひとだから」。
そう、平和を好み波風を立てたくないのは、なにより臆病で自分が傷つくのが怖いから。そして、それがわかるのはゴンもまた似た者同士だからにちがいない。まったく「I」型どうしの応酬には容赦というものがない。
ところで、イ・ドウという作家は、登場人物たちの心の機微をあらわすのにお天気や季節のうつろいをとても巧みに使う。
これみよがしに天気についての細かな描写がなされるわけではないが、心を開いたかと思えば閉ざし、閉ざしたかと思えば開いてといったぐあいに安定しない恋人たちの心情を、そのときどきの天気や季節ならではの空気感と合わせて上手に描き出す。そのさじ加減がなんといっても絶妙だ。
なるほど、恋にも空にも模様という言葉がつくのはどちらも移ろいやすいという共通点があるからだろう。
もちろん、ぼくらがこうした情趣を味わうことができるのは、やはり韓国が日本のとなりに位置する国だからであり、また四季折々の情緒を韓国の人びとと共有しているからにちがいない。
この先ずっと今年の夏のような気候が続いたら、それもどうなってしまうかわからないけれど。
さらに言うと、この物語のもうひとつの魅力はチャーミングな脇役たちの存在にある。
そこには誰ひとりとして傑出した人物は存在しない。
長所もあれば短所もある、そんなふつうの人びとが懸命にみずからの生を生きている。そして、だからこそときに惹かれあい、またときに反目しあうのだ。
そんなふつうの人びとの姿を、慈愛をもって描き出すイ・ドウのまなざしはどこまでもやさしい。
ある日、ゴンの祖父に呼び出されたジンソルは植物園の温室を散歩し食堂でクッパを食べて穏やかなひとときを過ごす。
ひとを愛することに不器用な若者たちの様子を見かねたのか、老人はジンソルに向かってこう諭す。
「人間てのは……三十歳を過ぎると、直して使うことができないんだべ。直らないのよ。」
「補い合いながら使わないといけない。んだ。あの人さ、補って使うべ。ほだなふうに考えてもけねが。あいつが持っていないもんをあんたが補って。ほだなふうに。」
これは、風こそ冷え冷えとしているものの、日の光が比較的暖かな冬の日曜日の午後のできごと。固く閉ざした心がじわじわと融けてゆくのを感じる。
そして、
当たり前のように始まってしまうのが恋愛であり、ときにその愛というものに、まったくたいした意味などなくて、幻滅してしまうこともありますが、にもかかわらず「もう一度愛してみること」が、この物語で描きたかった愛し方でした。
あとがきにある著者イ・ドウの言葉である。
最後に、もしこの『私書箱110号の郵便物』を手に取るとしたら、ぜひ秋から冬にかけてのいまこの季節にこそ読んでみてほしいと思う。
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