木のぼり男爵

独身者のおだやかな日常

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英一蝶の雨宿り 等しく濡らす優しさとして

雨傘のない世界に、思いがけず花ひらくユートピア。 江戸時代の絵師・英一蝶(はなぶさ・いっちょう)が、「雨宿り」を題材に描いた絵をみて思ったのはそんなようなことだった。 その絵、《雨宿り図屏風》に描かれているのは突然のスコールにあわてて軒下に逃げ込んだ人たちの姿。 そこには大人もいれば子供もいる。人間ばかりか犬の姿もみえる。その顔ぶれはまちまちで、行商人がいるかと思えば町娘や旅芸人がいる。そうかと思えば、腰に刀を差したお侍もいるといった具合。さながら士農工商カタログといっ

    • 路線バス それぞれの背につづく生活

      たとえば、地下鉄に乗りさえすれば最短距離で行けるようなところへ、わざわざ路線バスに乗って行こうなどとかんがえるのはなにかしら心が弱っている兆候らしい。これはもちろん自分にかぎった話だろうが。 つい先だっても、休日の朝を日比谷公園のコーヒーショップで過ごした後、ふと思い立って渋谷まで出ようとかんがえて、銀座線ではなく都バスで移動することを選んでいた。地下鉄ならほんの15分で着けるところ、わざわざ40分ちかくかけて行ったことになる。 心が弱っているとなぜバスに乗りたくなるのか

      • ほんの立ち話くらいのこと

        朝寝坊の秘訣 生まれてこのかた朝寝坊というものをしたことがない。 ゆっくり寝過ごすことのできる休日も、いつもの時間にパキッと目が覚めてしまう。 疲れていても体調が悪くても、決まった時間にいちどは目が覚める。さすがに夜ふかしすれば寝過ごすかと思いきや、結果はただ睡眠時間が削られただけだった。 性分なのか、はたまた体質なのか。朝寝坊の秘訣があるのなら知りたいところだ。 ついこのあいだも、やはり休日だったがいつも通りの時間に目が覚めてしまった。 しかたなくベッドを抜け出

        • 鶴を七羽描く

          その絵には七羽の鶴が描かれていた。二羽でも四羽でもなく、七羽。一枚の絵のなかに鶴が七羽とはまったくどうかしている。さすがに多すぎはしないか。 そもそも、その絵はヨコに長いカンバスではなく、タテに長い一幅の軸に描かれているのだ。ふつうの人間が、だいたいそんなタテに細長いスペースに鶴を七羽も描こうなどと思うだろうか。描いた人物はよほどの“変人”にちがいない。 この「群鶴図」と呼ばれる絵の作者は、江戸時代の画家 伊藤若冲。 隊列をなした鶴たちがパズルのように組み合わさって、じ

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        • 独身者と余暇
          19本
        • 独身者の休日
          13本
        • ほんの立ち話くらいのこと
          9本
        • 独身者の日常
          25本
        • 三行日記
          3本

        記事

          鶏から!鶏から!鶏から!

          ――本を三冊買う、という楽しみかたの方針を、現在の僕は確定されたものとして持っている。 これは、最近読んだエッセイの冒頭部分を抜き出したものである。書き手は、作家の片岡義男。その独特の言い回しに、あるいはピンときたひともいるかもしれない。 この文章のツボは、ひとことで言うと「本を買う」ことにではなく、本を「三冊」買うということに目をつけたところにある。じっさい、片岡義男のエッセイというと、こうした身近なモノやコトを題材にしながらも思わぬ視点から考察をくわえて新鮮な印象を引

          鶏から!鶏から!鶏から!

          ちょっと疲れていたり体調も良くなかったりする午後。 風にちぎれ飛ぶ夏雲が、有元利夫の絵の雲になってゆくのを眺めている。

          ちょっと疲れていたり体調も良くなかったりする午後。 風にちぎれ飛ぶ夏雲が、有元利夫の絵の雲になってゆくのを眺めている。

          ほんの立ち話くらいのこと

          夏休みは消極的な生活態度に宿る 中学生くらいのことだろうか、夏休みになるとよく映画をみていた記憶がある。 映画をみたといっても、午後2時というダラダラとした夏休みの一日のちょうど折り返し地点あたり、テレビをつけるとたまたまやっている映画をただなんということもなく眺めていたという話にすぎない。 先日、ちょうど仕事がお休みだった平日のこと、不意にそんなことを思い出してひさしぶりにテレビをつけてみた。 当時はたしか《2時のロードショー》という番組名だった気がするが、いまは《

          ほんの立ち話くらいのこと

          246を漕いでゆく夏

          あれはたしか、表参道のちいさな洋書店でイベントをやった後のことだったのではないか。 軽く打ち上げでもという話になり、ぼくらは総勢10名ほどでだらだらと週末の夜の青山通りを歩いていた。暑いにはちがいないが、いまほどではなかったそれは夏のことである。 しばらくそうやって歩くうち、次第にぼくは不安になってきた。 自分もふくめ、あらかじめ周到に打ち上げの店を決めておくような人間がここにはいないということを知っていたからである。じゃあ、いったいぼくらはどこにむかって歩いているのか

          246を漕いでゆく夏

          LOOという“伝説の”雑誌のこと

          近ごろ、文章らしい文章を書くことができない。原因はわかっている。コトバの詰め込みすぎだ。 この夏は、傍らにつねに四、五冊の本を積み暇さえあればずっと活字を追っている。1ミリも外出する気が起こらない、酷暑の副作用がどうやらこんなところにもあらわれているようだ。 もうひとつ、夏休みの宿題のような気分で手にとった歌集をきっかけに短歌のおもしろさに目ざめたことも大きい。 わずか三十一文字にどのようにして“思い”を乗せるか? 読み手を信じて詠むとはどういう意味か? そんなことを四

          LOOという“伝説の”雑誌のこと

          ほんの立ち話くらいのこと

          7月○日 梅雨明け 梅雨明け、だそうである。 梅雨明けといわれても、そもそも梅雨入りの記憶がないし気分的にはもう100年くらいずっと夏がつづいている感覚なのだから、「ハァ?」と昭和時代の不良少女のようなリアクションしか出てこない。 それにしても、こう高温多湿な日が毎日つづくと遠からず庭の枇杷はバナナに、柿の木はヤシの木にとってかわられるにちがいない。 目黒区の「柿の木坂」はいずれ「ヤシの木坂」に改名されるだろうし、軒に吊るされた干し柿はバナナチップにかわるのだろう。

          ほんの立ち話くらいのこと

          ホン・サンス《WALK UP》

          新宿でホン・サンス監督の新作《WALK UP》を鑑賞。 いつもの対話劇ながら、今回は舞台となる小さなアパートメントが重要な役割を果たしている。 主人公は芸術家肌の映画監督。インテリアの仕事に関心をもつ娘を連れ、知り合いのインテリアコーディネーターが所有するこのアパートメントを訪れる。 アパートは、1階に軽い食事や酒を提供するカフェがあり、2階は女性シェフがひとりで切り盛りする予約制のレストラン兼料理教室。3階には彼女の住まいがあって、ルーフテラスつきの4階は売れない女性

          ホン・サンス《WALK UP》

          ほんの立ち話くらいのこと

          6月○日 落語を聴くことは 落語を聴くことは、ちょっと旅することに似ている。 落語は、ひとを知らない時代のどこか知らない場所へと運んでゆく。 そこには身近な誰かに似たひとや、あるいはふつうだったらけっして出会えないような人たちがいて、生きることにまつわる多彩な機微に触れさせてくれる。 それはときに人生の復習に、またときに予習にもなる。なにより気持ちをふっと軽くしてくれる。 それに、もっともらしく《ダイバーシティ》なんて言い出すはるか前から、落語の世界ずっと多種多様な

          ほんの立ち話くらいのこと

          より少なく。機嫌よく。

          冷蔵庫の中の常備菜であるとか、あるいはまたスティーブ・ジョブズの黒いタートルネックであるとか、身の回りのすべてについて、自分にとってのコレ!という定番がある生活は好ましい。そういった暮らしにあこがれる。 言うまでもなく、あこがれるということはつまり現実にはそんな暮らしとは程遠いということである。 だが、なにもミニマルな暮らしをめざそうというわけではない。タイパがどうとか言うつもりもない。 ただ、より少ないもので機嫌よく過ごしたいだけなのだ。 卑近な例では、おやつのとき

          より少なく。機嫌よく。

          ほんの立ち話くらいのこと

          6月○日 夏眠届け “夏眠”させてください。冬がんばるので。どうか。 6月○日 ぼっしゅーと 来月7日の都知事選を前に、そこかしこで選挙ポスターの掲示板をみかける。 それにしたって、長い。 いったいどれだけ候補者がいるんだ。知るかぎり、都知事はたしか一人だったと思うのだが。 なんでも都知事選に立候補するためには300万円の供託金が必要だという。 しかも、有権者数の1/10の得票数を獲得できなければその供託金は問答無用で没収されるのだとか。 300万円を棒に振

          ほんの立ち話くらいのこと

          本を贈ること、贈られること

          本を贈ること だれかに本を贈る。それは、自分にはなかなか勇気のいる選択だ。 気心が知れたとまでは言わないにせよ、よほど相手の趣味なり嗜好なりを心得ていないとむずかしい。 バレンタインデーが、北欧フィンランドでは「ともだちの日」として友人どうし本を贈り合う日であるときいたときには、だから少しばかりおどろいた。 それはフィンランドでは本が高価な上、図書館の利用率が世界一といわれるほど読書を趣味とするひとが多い土地柄だからこそ成り立つもので、いまや国民の半数近くが一年に一冊

          本を贈ること、贈られること

          ほんの立ち話くらいのこと

          5月◯日 おじさんを研究する おじさんとしていかに生きるか。 それが、ここ最近の関心事のひとつになっている。 なにしろただ息をしているだけで殺意を抱かれる存在である。もはやおじさんは蚊やゴ○キブリ、最近のトレンドでいうとカ○ムシと同等か、場合よってはそれ以下の扱いだ。 この“おじさん”という十字架をまだしばらく背負って歩かねばならない身として、ここのところ“おじさん”研究に余念がない。 つい先だっては、『パリのすてきなおじさん』なる本を手にした。 タイトルどおりパ

          ほんの立ち話くらいのこと