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“歩くひと”にならって歩く

歩くひとといって思い出すのは、もうかなり前になるが、フィンランドのヘルシンキでのことである。

時差ボケのためか、旅行中ずいぶんと朝早くに目が覚めてしまったことがあった。朝食にはまだ早い。そこで近所を散歩して時間をつぶそうと考えた。

もともとヘルシンキは人口密度の低い街だが、早朝ともなればなおのこと人影はまばらだ。

コツコツと音を立てて舗石の埋め込まれた通りを歩く。2ブロックほど歩いたあたりで、24時間営業の小さなスーパーから買い物袋をぶらさげた三十代くらいの男が出てきた。

近隣の住人なのだろうが、パジャマの上にガウンを羽織り、素足にサンダルを引っかけただけといういでたちはさすがにラフすぎた。初夏とはいえ、どんよりと曇った早朝の北欧の空気は冷たい。よほどの近所なのだろうか?

しかし本人は寒そうな素振りなどみせず、なにやら鼻唄さえ口ずさみながら人気のないヘルシンキの街を悠然と歩いてゆく。

朝からなにやら楽しそうなその男の様子を見ていたらなんだかこちらまで楽しい気分になってきた。

もともとこれといった目的をもって歩いているわけではない。気づけばつかず離れずの間隔をとりながら、その男の後をついて歩いていた。

よく知らない土地で知らない人間の背中だけを目印に歩く。うっかりすれば迷子になりかねないシチュエーションだが、男のいでたちからしてそう遠くへ行くこともなさそうだ。

じっさい、彼は1ブロックほど進んだ角を右に折れるとさらに1ブロックほど進み、左手にあるアパートの門を開けて中に入っていった。築100年近く経ていそうな石造りの建物はなかなかに瀟洒な佇まいだった。

面白かったのは、不案内な土地にもかかわらず、その男の後をついて歩いている間だけはなにやらよく知った街角を歩いているような気分になったことである。

慣れた道を家路につく地元民の歩みからは微塵の迷いも感じられない。一定のテンポをキープしつつサクサクと進む。それは、あたりをキョロキョロ見回しながら歩く観光客のそれとはあきらかに別物だ。

おそらく、前を歩く男のテンポに合わせて歩むことで、そこが異国であるという緊張や不安から一瞬解放されたのではないか。

わずかの時間とはいえ、“お客様”ではなく、その街の一員として迎え入れられたような気分を味わえたことに僕はすっかり満足してしまった。

街に馴染むとは、その街の地理に通じることよりも、たぶん、その街に特有の息づかいに同期することを言うのだろう。

ホテルに戻って、ぼんやり考えたのはそんなことだった。

谷口ジロー『歩くひと』


世間では三連休の初日だった日、うまいこと仕事が早く片づいたので図書館に寄り道した。

谷口ジロー『歩くひと』は、そのとき借りた二冊のうちの一冊である。

井浦新の主演で映像化したものなら以前テレビでみたことがあったが、不思議と原作を手に取ろうとまでは考えなかった。

ひとつには子どもの頃あまりマンガに触れてこなかったせいで単純に思いつかなかったということがある。だがそれ以上に、映像は映像として自分なりに満足していたためその必要を感じなかったということもあるかもしれない。

原作を読んでみて、驚いたことがふたつある。

ひとつは、主人公(原作では年齢や職業はおろか名前すらわからない)の男が井浦新とは程遠いフツーのおじさんとして描かれていることだ。

そしてもうひとつは、映像化されたそれよりも主人公がずっと“過激”なキャラとして描かれていることだった。

およそ通り抜けることすら難しそうな細い路地を無理やりすり抜ける。深夜にフェンスを乗り越えて侵入したプールで真っ裸になって泳ぐ。深夜、酔ったいきおいでマンションの非常階段を駆け上がり、そのまま屋上で朝を迎える。などなど。

いや、それは大人としてやっちゃダメでしょということを衝動のままにやってしまう。まあまあ、困ったひとである。平たく言ってしまえば、やんちゃな少年がおじさんの着ぐるみを被っている感じ。

でも、そこがよい。

彼は、誰もが心のどこかでやってみたいと思いつつ“大人”であることを理由にあきらめてしまうようなことを、こともなげに飄々とやってのける。読んでいると、まるで自分の代わりにやってくれているような気になる。そういうカタルシスが、この『歩くひと』にはあるのだ。

もちろん、知らず知らずのうちに『歩くひと』と同じような行動をとっていることもある。幼稚と笑われるかもしれないが。

バスの車窓から気になる風景を見つけて途中で降りる。道に落ちているがらくたをつい拾ってしまう。他にも、前を歩いているひとをこれみよがしに追い抜いてみる。などなど。

『歩くひと』に収められた「長い道」は、散歩の途中たまたま遭遇した老人と抜きつ抜かれつのデッドヒートとなり、その結果、思いがけない風景と出会うという話である。

主人公と老人とが、心にやんちゃな少年を隠し持った“同志”であるところが読んでいてうれしい。ニヤリとしてしまう。

見た目からは想像つかなくても、“歩くひと”はじつはこの街にもたくさん棲息しているのかもしれない。

いつか、なにかの拍子にひょっこり遭遇してみたいものだ。

「長い道」から

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