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歴代首相の職務経歴書・池田勇人氏と田中角栄氏を分析

こんにちは。
株式会社ロジック・ブレインのコンサルティングパートナーの園池です。

弊社の性格診断システムであるロジック・ブレインを利用して、歴代の首相の能力を分析していくという試みです。

今回は第58〜60代内閣総理大臣・池田勇人氏と第64・65代総理大臣の田中角栄氏を比較検証していきます。

池田勇人氏の経歴

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池田勇人氏の総合分析レポート

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池田勇人氏の個性分析シートです。全部真っ赤!!!
ザ・感性タイプという感覚の人であり、瞬間瞬間で思考が変わるタイプの方です。

池田勇人氏とは

税務署出身で数字に鋭い勘を持っており、経済政策にも強い自負心を持っていました。吉田内閣では初当選で大蔵大臣となり、大胆な財政金融引き締め政策を断行、総理大臣時は所得倍増計画も池田氏ならではの経済政策です。一方美術品の価値や演説効果などなんでも数字に置き換えて説明する癖があり、周囲をうんざりさせることも。

抜群の発信力
「経済は池田にお任せください」とか「月給を2倍にします」などわかりやすい言葉で聴衆の心を捉える発信力が、池田氏の魅力の1つでしたが、一方失言が問題になることも、「貧乏人は麦を食え」とか「中小企業が破産してもやむを得ない」と発言し、ついには辞任に追い込まれています。
実際は発言の趣旨が違うのですが、当時のメディアが強調したことで国民の反発を買いました。
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寛容と忍耐の政治姿勢**
豪放な性格、重なる失言により、高飛車な政治家だという印象を与えてしまった。総理には不適格だという声もありましたが、池田は自民党総裁戦で勝利し、総理の椅子を手にします。
かつて「民主主義の基礎は時の政治的優位者の寛容と忍耐だ」と米国務長官シュナイダーから受けた教えにより、寛容と忍耐を政治姿勢として貫き、国民の支持を勝ち取りました。

池田勇人が所得倍増計画を提言した理由

まずは1959年の2月に参議院選挙をにらみ、広島入りした池田氏は記者団に「月給2倍論」を公表します、同じ年の正月に読売新聞に中山伊知郎一橋大学教授の論文「月給2倍論」が掲載されています。大蔵官僚の下村治氏ら政策ブレーンの研究・分析から10年後には生産は2倍になり、所得も2倍になるイメージができていました。このような根拠から池田氏は所得倍増計画を推進しました。

国民所得倍増計画

1956年発行の「昭和31年度版経済白書」のなかに1950年台の朝鮮戦争特需から始まった「神武景気」により1955年ごろには戦後復興からの経済成長の1つの目的を達成していたことがわかっていた。岸内閣時代の「新長期経済計画」よりも長期的な視野で国民所得倍増計画を打ち出します。国民総生産を10年で2倍に、国民の所得を倍増させ、国民生活水準を西欧諸国並みに引きあげると同時に、農業と非農業、大企業と中小企業の格差是正に取り組むというものです。

池田氏には「年率9%の経済成長ができる確信」がありました。しかし運輸官僚出身の佐藤栄作氏、池田氏と同じ大倉官僚出身の福田赳夫氏がこの政策を批判していました。
理由は「朝鮮戦争特需が終わったところで新たに投資をしても在庫が増えて不況を招く」というものです。

実際に1955年に11%を超えていた実質経済成長率は1957年には6.5%程度に落ち込む「鍋底景気」といわれ、政府も日銀も緊縮財政に向かおうとしていました。

対して池田氏は大蔵官僚出身の下村治氏を中心に、経済学者をはじめとした経済通と自らの派閥「宏池会」メンバーを政策ブレーンとを集め所得倍増計画の政策実施に向けて動き出します。

池田氏の確信

吉田内閣での大蔵大臣時のGHQとの交渉、予算折衝という経験がギリギリの時点を見抜く力を身につけ、当時のアメリカが3%、ヨーロッパでも3〜4%の成長率という中、自らの経験と信念と能力で当初3年間の成長率を9%とした。

さらに池田氏が経済審議会案よリも高い成長率を見込んだのは、「戦後のベビーブームに生まれた世代が就業する時期に経済の規模を大きくしておかなければやがて深刻な失業問題が起こる」と考えていたこと、
「鍋底景気」もあったものの、1964年にはアジアで初の東京オリンピックの開催が決まっていたことによる、インフラの整備(公共事業)、家電分野を中心としたイノベーションの開始、農村を中心とする地方からの勤勉な労働力にも恵まれていた。

「政治とは国民生活を引き上げ、社会保障を充実することである。過去5年間を見ても、成長率は9%を超えている。これを見て、今後9%と見積もってなぜ悪いか」との強気の発言をしたのでした。

池田氏の実行力
国民所得倍増計画を達成するための適切な施策として
・1000億円以上の減税
・社会保障の画期的拡充
・農林漁業基本政策の確立
・中小企業の近代化
を掲げ、次々と実行していく。産業の国際競争力を高めるため、1960年には約41%だった国際自由貿易の自由化率を高める解放経済体制の意向を決め、1962年には88%に上げ、日本製品輸出による外貨獲得の道を開く。
国内産業においても、1960年代半には3C(カラーテレビ・クーラー・自動車)の新三種の神器が「需要よりも供給が成長の起爆剤」と説いた政策ブレーンの下村氏の理論通り新製品の供給が国民の需要を喚起し、結果当初の3年間は年率9%の成長目標に対し、初年度で実に10%以上の成長を遂げた。

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池田氏は「10年で国民総生産と国民の所得を倍増させる」という池田内閣の国民所得倍増政策を10年かからずに総生産を倍にし、国民所得も倍増し、次々と目標を達成し”東洋の奇跡””世界の奇跡”とまでいわれる事となる。

IMF(国際通貨基金)の区分で経済力に不安のある「14箇条」として扱われていた日本は1964年先進国と同等の8箇条への移行が承認される。日本が経済で先進国の仲間入りできたのは池田氏の手腕であった。

池田氏の能力とビジネススタイル

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 ロジックにおける池田氏の能力は第一能力が実行力と第二能力が包容力である。さらにビジネススタイルは理論的スタイルで吸収力、本質がT-なので計画力も持ち合わせています。ここでは第一能力と第二能力に焦点を当てていきます。

※ISDロジックでは個人の能力を10種類に分類しています。

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実行力
池田氏の第一能力です。この能力は物事を推し進めていく力で個人で推し進めていく力であるという方が分かりやすいと思います。
能力の画像を参照していただければわかると思います、池田氏が国民所得倍増計画を達成したのはこの能力が大きな影響をしていと言えます。郵政民営化を実現した、小泉純一郎首相もこの能力を第一能力に持っています。
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包容力**
リーダーシップとしての力であり資金運用力。包容力が経済政策の達成も大きく貢献しています。
先にも書いた、大蔵大臣時代の予算の折衝で鍛えられた能力が才能へと昇華しているからこそ、日本に国民にお金を引き寄せたと考えられます。

数字の強さは理論的スタイルからくる吸収力による賜物です。
吸収力は見たものや聞いたものを必要なポイントだけを絞り込んで理解することができ、見たもの聞いたものをそのままの形で展開し伝えることができる能力で、税務署時代に学んだことが生かされた結果と言えるでしょう。

池田氏の発言や行動を辿っていくと、池田氏が持っている能力を生かし使うことで、政策を実行でき、その功績が日本を先進国として認めさせる結果になったことは明らかです。

田中角栄氏の経歴

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田中角栄氏の総合分析レポート

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池田勇人氏と戦略が同じスピードタイプ。ビジネススタイルが理論的スタイルです。同じタイプでも行った政策は全く違います。認識していただきたいこと、人はそれぞれ違うということです。

田中角栄氏とは

過去を振り返ると、戦後総理大臣になる人物は、帝国大学から官僚を経て政治家になるという流れでしたが、田中氏は高等小学校(義務教育6年+2年)を卒業し、建築・土木などを専門学校で学び、土建会社の社長から政治の世界へという叩き上げからの進出です。

選挙活動は山奥まで足を運び、人々と膝を抱えて語らうという、庶民に寄り添う政治を行いっています。これが庶民派宰相といわれた所以です。2006年に安倍晋三氏(52歳で就任)が総理に就任するまでは田中氏(54歳で就任)が戦後最年少総理でした。

抜群の実行力
田中内閣のキャッチフレーズは「決断と実行」で田中氏は決めたらすぐ行動を起こします。その功績が就任して2ヶ月半で成し遂げた日中国交正常化です。

細かなデータを全て頭に入れ、独学で学んだ豊かな法律知識を駆使して強力なリーダーシップを発揮し、「コンピューター付きブルドーザー」と呼ばれたが、その強引さがやがて自分を追い詰める結果になります。

金権政治の今太閤
裸一貫から総理にまで上り詰めた田中氏は、草履取りから関白になった太閤豊臣秀吉になぞらえて、「今太閤」と呼ばれました。しかし、莫大な活動資金を投入した選挙活動は批判される、土地ころがし(土地の転売)による錬金術も明るみになり、金権、金脈批判に追い詰められた田中氏は退陣を余儀なくされます。しかし、その後でも政界に強い影響力を持ち、「目白の闇将軍」とも呼ばれました。

就任2ヶ月半で日中国交正常化を実現できたのはなぜ?
田中内閣は1972年7月7日に発足その当日、「外交については、中華人民共和国との国交正常化を急ぎ、激動する世界情勢にあって、平和外交を強力に推進する」という談話を発表します。第2次世界大戦後、日本は蒋介石率いる中華民国政府(台湾)と国交を結んでおり、台湾と敵対する中国とは国交がなかった。1971年に中国が国際連合に加盟したこと、1972年2月には当時のアメリカ大統領ニクソン氏が電撃訪中し、中華人民共和国が中国の正統な政府であることを認めたため、日本は中国共産党政権を認めざるを得ない状況なったのでした。

中国の3原則
中国が日本と国交を再開するのに主張していたものです。
①中華人民共和国が中国の唯一の合法政府である。
②台湾は中国の領土の一部である。
③日華平和条約は破棄されるべきである。
日華平和条約は日本と中国の戦争状態の終結、日本が提供すべき賠償の放棄などを約束したものです。三原則に従えば、台湾との断行を意味しますが大局を考えると、日中国交正常化はアジアの緊張緩和に資するという観点からもこちらが重要ということであるが、台湾との関係は断行したとしても、経済的交流は続けて行くという方向に定まった。

不退転の中国行き
田中氏がスピーチで「わが国が、中国国民に多大な迷惑をおかけしたことについて、私は改めて深い反省の念を表明するものであります。」と述べたところ中国側からはざわめきがあり拍手もなかった。

この「迷惑」という言葉に中国側は反応しました。
日本語と中国語の違いである、迷惑をかけたという訳が「添了麻煩」という言葉は、撒いた水が人にちょっとかかってしまった程度のミスを詫びる時に用いられるもので、周恩来氏はじめ中国側は戦争をそんな簡単な言葉で片付けるとは何事だと激怒した。

翌日、周恩来が「添了麻煩」の不快を表明するが、田中氏は「ご迷惑をかけたという言葉は、日本では誠心誠意の謝罪を表すのです」と丁寧に説明することで周氏は納得し、この件は落着しました。

問題はまだありました、その当日の会議で中国側は「戦争状態の終結」宣言にこだわり、日本側は解決策が見出せませんでした。

夕食時、田中氏と共に同行していたメンバーたちが落ち込んでいる最中、田中氏だけは意気軒昂でした。この時には大平元首相(その時は外務大臣)も同行していました、大平氏が「国交を正常化できないまま日本へ帰るのか?」と田中氏に問いかけると、「失敗したときの全責任は俺が全てかぶる。君らはクヨクヨするな、こういう修羅場になると大学出はダメだな」というと、マオタイ酒をぐっとあおってニヤリと笑った。大平氏が「それなら名案があるのか」と尋ねると、田中氏はふたたびニヤリと笑い「どうやるかは、ちゃんと大学を出た君らが考えろ」そこでみんな大笑いとなり、下戸の大平氏も酒に口をつけたというエピソードがあります。

日中共同声明発表

その夜、大平氏や外務省担当者らは作戦を練り直し「戦争状態」を「不正常な関係」と言い換えることで、翌日の会議で中国側の了解を受けることに成功します。
予定になかった毛沢東首席と田中氏との会談が急遽セッティングされる運びとなり、毛主席からお土産もいただくこととなり、1972年9月29日に日中共同声明が発表されることになりました。

この当日、台湾政府から断行を通告されます。台湾にいる日本人は外出を避けていましたが、報復行動などは起こりませんでした。

田中氏の能力とビジネススタイル

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分析力
田中氏の第一能力は分析力です。分析力は2つの力に分けることができ、組織管理力と実務力も兼ね備えています。計画性に優れ、先の展開を読むことが可能です。日中国交正常化ではこの能力が発揮されていたのかと推測します。
起こりうるあらゆる場面を想定しながら、より緻密な計画の立案が可能な能力という理由からです。

迷惑という言葉の問題でも、状況を分析し起こりうる場面を想定しながら中国側にしっかり丁寧に説明することで危機を回避した実務力、エピソードにあるように、戦争状態の終結という言葉の問題では「責任は俺がかぶる」との一言で組織をまとめ上げる組織管理力により、大平氏と外務省担当者を励ます言葉で動かしたことはまさにこの能力が発揮されたと言っていいでしょう。

またこの能力をさらに強めているのが田中氏の本質がM-ということがあります。日中国交正常化に結びつけることができたのには他の要因もありますが、田中氏自身に能力があることが必要不可欠です。
自身の能力をうまく使いこなせていたからこそ総理就任から2ヶ月間で達成できたと言えます。

吸収力
田中氏の第二能力は吸収力です。先述の池田氏もどんな複雑なものでもそのまま吸収し、体系、シンプル、整合性のあるものに発信できる力です。

また、学習能力に優れ、事業や計画の前向きな推進実行力が伴い、行動力や瞬発力に優れている場合も多いので事業の実働部隊には欠かすことのできない能力でもあり、身のこなし方ひとつで中枢を担うことも少なくありません。
この能力をさらに強めているのが、田中氏の理論的スタイルです。池田氏も田中氏もこの理論的スタイルが大きなキーポイントとなっています。
※ここでは能力に関することなので、スタイルの説明を割愛させていただきます。

田中氏と言えば、日本列島改造論です。日本列島改造論には原型があります、それは1968年に自民党の都市政策調査会が出した「都市政策大綱」という報告書で、これは田中氏が委員長となって取りまとめ、この対抗で示したビジョンを具体化し政策として打ち出しました。

大都市に集中した産業を地方に移すことで人の流れと産業の活力を日本列島の全域に展開しようというものでした。

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特徴は国民に改造の設計図を打ち出したことです。交通網の整備では新幹線のルートを明示し、大規模工業基地や工業団地の候補地の名を挙げたことにより、その土地を大企業が買いあさり、地価の高騰を招く結果になりました。
このような状況にもかかわらず、田中政権は予算規模を増大させ国土開発を強行しようとしたため、全国的に地価が高騰したのと同時に物価も上昇しました。これが元で支持率が低下しこの計画は挫折することになったのです。

まとめ

感性タイプで戦略がスピードであり、ビジネススタイルが理論的スタイルと同じタイプ同士の池田勇人氏と田中角栄氏の政策を見てきました。
同じタイプでも生きてきた環境が違うと全く違う道を歩んできたことを知っていただけたのではないでしょうか?

エリート気質の池田氏、庶民感覚の叩き上げの田中氏。同じタイプある二人をマネジメントするとしたらどうするでしょうか?

基本的にはモチベーションや手順は同じです。しかし能力が違うために全く違う功績を残しました。能力を活かすも殺すもマネージメントであると感じていただければ幸いです。

参考文献 池上彰と学ぶの日本の総理 第2・3号 田中角栄・池田勇人 小学館ウィークリー


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