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『あんのこと』は『誰も知らない』に並ぶ毒親育ちを描く名作映画

『ナミビアの砂漠』で河合優実沼に落ち『あんのこと』を観たら、ぶん殴られた私の日記

2024年9月、ナミビアの砂漠を夫が見たい見たいというので、映画館へ。いや、めっちゃよかった。河合優実の魅力と引力が凄まじく、この人の出ている映画をもっと観たい!と思って、アマプラでふと見かけたのが、『あんのこと』。

香川杏、21歳。シャブ中でウリの常習犯。ホステスの母親と足の悪い祖母と、3人で暮らしている。子どもの頃から、酔った母親に殴られて育った。小4から不登校。初めて体を売ったのは12歳で相手は母親の紹介だった。希望はおろか絶望すら知らず、ただ繰り返される毎日。そんな薄暗闇の世界が、ある出会いをきっかけに少しずつ変わり始める。だが、やっと繋がった細い糸も突然のコロナ禍に断ち切られてしまい──。© 2023『あんのこと』製作委員会

見終わった今、私のなかには、あんのことの方が、ずっと大きく残ってる。いうならば、ナミビアの砂漠は、杏がどこかで生きていて、少し成長して、ナミビアの砂漠のカナみたいに生きててくれたらと願うような、気持ち……というか。あんのことの感想を4行でツイッターに書きかけ、軽々しく書いては いけないような気持ちになって、画面を閉じた。
 
河合優実を形容する言葉が思い当たらないんだけど、いうならば……北島マヤってこういう感じ?的な???『ナミビアの砂漠』と『あんのこと』を両方観ると、河合優実はもはや北島マヤにしか見えなくない???

現実に着想を経て、それを再構築した脚本家・監督に脱帽

杏は、杏を所有物のようにみなして虐待する母親と足の不自由な祖母と暮らす、覚醒剤依存の21歳の女の子だ。覚醒剤を初めて使ったのは、売春する時暴力団の人に打たれたことがきっかけ。腕は一面リスカの痕だらけ。目元はクマが濃く、主な収入源は売春で、家族の生活を支えている。彼女自身の喜び?無。

という描写で映画は始まるも、冒頭で売春相手が覚醒剤で失神してしまったことをきっかけに警察に逮捕された杏は、取調べで一風変わった刑事・多々羅(佐藤二朗)に出会い、ぶっきらぼうながらも独特の優しさを持つ多々羅に、次第に心を開いていく。多々羅が主宰する薬物更生グループを取材する記者桐野(稲垣吾郎)にも助けられ、杏は薬と売春をやめ、介護施設で職を得て、薬物依存症の更生グループに参加し、自立支援シェルターにつかの間の居場所を得て、人生を立て直そうと懸命に努力する。

シェルターにつかの間の居場所を得た杏が、日常的に母親から殴られ蹴られたかられ心を踏みつぶされる鬼の巣窟のような実家から荷物をまとめて出ていくシーンは、「お願いどうかこんなくそばばあ無視して出てって……」と祈るような気持ちで見てしまう。母親とつかみ合いの果てに転げるように走って出てきた杏を公園で待っていた多々羅がもみくちゃにするシーンでは、あぁよかった……と一緒に安堵せずにはいられない。
 
しかし鬼畜な母親に職場の住所がバレてしまい、杏の収入をアテにする母は杏を連れ戻そうと施設に殴り込んでくる。でも施設の責任者は警察を呼ぶぞと追い返し、誰も守ってくれる人がいない家の中の暴力とみんなが彼女を守ろうとする環境の違いが描かれる。

介護施設の仕事の合間に夜間中学にも入り、小学生の教材で計算ドリルや漢字の練習をする杏。いつの間にか髪は黒く染められ、多々羅や桐野との他愛ないラーメン屋や日々の会話に抱擁され、杏の表情も変わっていく。多々羅の言葉「薬を使わなかった日には、日記にマルをつける。1つの小さなマルが、1週間になり、1ヶ月になり、1年になる」を信じ、マルを少しずつ、重ねていく。

 でも、そこに襲いかかるのが、新型コロナウイルス──。介護施設は非正規の職員の出勤を停止させることに決まり、通い始めた夜間中学も閉まってしまう。襲いかかる最大の悲劇は、杏の最大の支えだった多々羅が、薬物更生プログラムに参加していた別の参加者への性加害で逮捕されてしまうのである。杏が家庭の外に少しずつ見つけていった人とのつながりが、コロナ禍でひとつまたひとつと奪われ、再び孤立してしまう杏の元に託された(いきなり押し付けられた)のが、シェルター内の見知らぬ入居者女性の、赤子。
 
泣きじゃくる赤子と二人で取り残された杏に、もしかして虐待をしてしまうんじゃないか──と一瞬不安になるも、杏はそんな人よりずっと強いのである。生活の支柱を失い、ゴミの散乱する部屋に住みかけていた杏の内面の強さを呼び覚ますのが、その自分よりずっと弱い、赤子の存在。慣れない手つきでオムツを替え、必死にご飯を作って食べさせ、くっついて眠り、二人は次第に本物の親子のようになっていく。その、ともすれば「迷惑で煩わしい」、「面倒を見る縁も義理もない」存在に支えられ、生きる活力にしていく杏の持つレジリアンスには、涙を誘われる。

しかし、杏の人生が好転しかけるときにことごとくそこに現れるのが、悪魔の母。杏が赤ちゃんとの生活に馴染み、柔和な笑顔を見せるようになった頃、杏を連れ戻そうと母親がシェルターに押しかけるのである。守るべきものを持った杏は、初めて「帰ってよ」と強気で対応するも、おばあちゃんがコロナで死んじゃうかもしれないという泣き落としを振り払いきれず、ベビーカーを押しながら実家の様子を見にいくことに。(行くな、行くなよ……涙)そうして家に入った瞬間に、母は子供を人質に奪い、カッターを突きつけて杏に「金作ってこいよ」と脅す。
 
震える杏がずっとしていなかった売春をして数枚の万札を手に入れる間に隼人は児相に保護され、いなくなってしまう。なんの法的な保護者でもない杏にとって、それは永遠の別れを意味するもの。
 
閉ざされた世界に舞い込んだ生きる希望そのものを失い絶望した杏は、隼人のいなくなった部屋の窓から、飛び降りてしまう……。

物語の再構築の仕方が巧み

『ナミビアの砂漠』は、どうしても主演女優という演者の存在感に頭が寄ってしまうのだけれど、『あんのこと』は、河合優実以上に素晴らしい仕事をしたのが、脚本家兼監督の入江悠だと思う。
 
こういう、事実を基にした(でも膨らませているフィクションの部分もある)映画を見ると、どこからどこまでが事実で、どこからが創作の羽なのだろう──と思うのだけど(そしてだいたいは答えを知ることはできない)、この映画に関しては、答えあわせがわりあい可能だった。
 
「新聞の小さな三面記事を基にした」という映画の宣伝の文言通り、2020年(映画の撮影は22年)の朝日新聞に、ある25歳の女性の生涯を伝える、設定の部分(と支援した刑事が特別公務員暴行陵虐容疑で逮捕・起訴・有罪判決になったという箇所まで)がそっくり同じ記事があったからだ。
 
記事には、杏が夜間中学の入学式で新入生代表の言葉を読み上げる予定だった事、入学式が中止になってしまった事、彼女の様子がおかしくなっていく頃、猫が死んで(母親に殺されて)、火葬費用2万円を貸してほしいと刑事に電話があった事──など、作中には登場しないことも記されている。
 
つまり、赤子を押し付けられ、育てる日々のなかで彼女が癒されていって、でもその子供を失ってしまうことに最大の絶望を感じて自死する、というのは創作の羽の部分ということ。それからシェルターで一人で住んでいた、というのも(現実の彼女はその家に住み続けながら、外の世界との接点に希望を見出し、もがいていたことが記されている)。

だから、生い立ちの設定と、最後に「死んでしまう」は事実なのだけれど、どうそこに至ったか、という彼女の絶望をどう表現するかという文脈においては、現実を解体し、伝えたいことを核として、その周辺を再構築するという営みが行われている、ことがわかる。
 
でもね。映画的に突き刺さるシーンって、そういうところだったと思う。

猫が母親に殺されて死んでしまうというのも壮絶だが、表現としては、赤子に希望を見出し、癒され、立ち上がった果てにその子供を奪われてしまうという描き方の方が、心の浮き沈み、叩きつけられる絶望の傾斜がより迫って見える気がする。

史実と映画的な物語を並べて比べることは、野暮かもしれない。でも私は、解体してその核を大切に再構築したことこそが、素晴らしい映画の仕事だったと思っている。赤子のエピソードは、素晴らしい表現だった。だって、そこには杏の幸福感に対する謙虚さと心根の優しさ、それを負担と思わずに自分の力に変えていける彼女の強さが強く現れて、それは彼女の生命力の本質を実に深く捉えたもの。

それがどういうことかというと、現実に着想を経て、「ありのまま」よりさらにその絶望が胸に迫る形に再構築する。伝えたいことの核を変えずに、より「伝わる」ように。それこそが脚本家・映画監督の、仕事じゃないか。 

子供は親を捨てられるか。 その呪いから自由になれるか

『あんのこと』は、“コロナ禍の”という特殊な社会状況を切り取るものとしてスポットライトが当たりがちだが(当然そそうされるべきものでもあるが)、一方で、そこにはもう一つの普遍的なテーマが横たわっている。特殊な家庭に生まれた子供が親を捨てて幸せになることの難しさ、である。

身内、それも親と決別するというのは大変なことだ。世の中には親を大切にしなくちゃいけないとか、産んでもらったとか育ててもらったとか親と仲が良いことを美徳だするナラティブに溢れているし、仮にそんなものがなくても、どんな親でも子供は無意識に愛を向けてしまうもの。「もしかしたら(心を入れ替えてくれたのかも)」とか、「今度は違うのかも」とか、そういう気持ちを断ち切って、親を「捨てる」というのは。そこには完全なる外側の人間を憎んで切り捨てることとは違う難しさがある。でも、世の中には親と決別するしか子供が自分の人生を生きられない親も、いる。

そして杏の母親はそういう親として描かれている。
 
杏と杏の母親の関係性は、たった一つの言葉に凝縮されている。金作ってこいよ、と杏に売春させる母親は、娘のことを『ママ』と呼ぶのである。
  
気持ち悪く、インパクトが強く、脳裏にこびりついて離れないこの言葉は、庇護されるべき存在と庇護するべき存在が逆転した関係性を、たった一言で表現している。

「ねえママ、お願いだよ」

「あたしもやってんだから、ママもやんな」(売春を)

掴みかかって殴り倒して、お前の体はあたしのもんだろ、て言葉もあった。

そのシャワーのように浴びせられる言葉から、「子供」は自由になれるのか──。

 親を捨てたから、杏は外とのつながりのなかに幸せを見出していった。でも、親を捨てきれなかったから、最後その悲劇的な結末へと向かっていった……。

日記帳というモチーフ・・・


「ママ」と呼ばせることもだけど、脚本家兼監督の仕事の凄さは、小道具の貫かせ方にもあったと思う。
 
そう、作品全体を貫くモチーフ的な小道具に、杏が初めて売春以外で稼いだお金で買った、かわいい花柄の日記帳がある(かわいいモノになんて無縁な杏が、自分のためにそういう日記帳を買うところの、言葉にならない表現も……)。

そこに彼女が、日々つけていく、マル。最後、絶望のなかでずっとやめていた覚せい剤に手を出し、「マル」が書けなくなってしまった彼女は、泣きながら日記帳を破り、燃やして、窓の外に出る。

子供がいなくなってしまった部屋に残された杏の、息が詰まるような苦しい、希望が全部消えてしまうような悲しみは計り知れないものがあるんだけど、それを、ずっとつけ続けてきた、多々羅と会って買った大切な日記帳を破って燃やして、すすり泣くって表現が……。

映画全体が問いかけてくる。私の生き方はこれで合っている?というくらいに。『誰も知らない』以来のつらさがある作品だった。半分放心状態でコーヒーマグを下げようとしてソファから立ち上がり、昨日からダイニングテーブルの上に置きっ放しになっていたナミビアの砂漠のパンフレットが目に入って、それが超幸福な映画に思えて、笑えた。。。


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@Globe🌏蓮実 里菜
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