Think Global, Act Localの終焉 N56
コロナではっきりしたのは高度資本主義化での動物的消費の終焉(*1)、それを扇動していた多国籍企業の終焉である。
元々多国籍企業の歴史を遡ると古くは東インド会社などがあげられるだろうが、近年の意味合いでいうと1980年代から大きな潮流は始まってきた。80年代にはプラザ合意、GATTウルグアイラウンドなど国際間の交流を普及させるイベントがあり、その後1990年代初頭にソ連崩壊と中国の社会主義市場経済が始まりいよいよ世界は一つへと向かっていった。そして今の世界へとたどり着いた。
多国籍企業ができた動きの1つ目としては、グローバル化の流れが加速する中で各国の大企業(あるいは野心的な企業)はScale of economyとScope of economyを広げ、国内や地域の大きな企業から多国籍企業へと変貌を目指した。そして多国籍企業は世界中に展開を繰り広げながらも投資/買収や売却を繰り返して事業の選択と集中を進めてコアコンピテンス(*2)を形成し巨大企業となった。また(特にB2B型の)多国籍企業は大きな収益が期待できる多国籍企業をターゲット顧客とした。その大きな顧客と付き合うためには企業規模が必要とされ、幅広い国で展開する範囲が必要とされた。そしてGrow or Outの世界で負けたモノは競合の傘下に属する、あるいは吸収される運命にあった。
2つ目として多国籍企業は規模の優位性を活かすためにプロダクトやサービスの標準化を徹底した。その一方、世界各地で同じ商品やサービスはマッチしないためにローカライゼーションというカスタマイズを施した。これが多国籍企業で俗に使われたLocally Actである。標語は美しかったが、内情を言えばグローバルの標準品の包装を個々の国に合うようにしたり、味付けやトッピングを少しだけ変えるやり方が多国籍企業の中で普及した。それをマスカイタマイゼーション呼び、象徴的なプロセスモデルでコスト優位性と小手先の顧客ニーズに柔軟に対応する能力を高める戦略を取った。そして洗練されたマーケティングで相手のニーズや感情に合わせたトゲのないヤスリで削ったような丸みを帯びた優しい商品を提供した。
3つ目に人件費の安いインドやフィリピン、あるいはバングラディシュやコートジボワールに生産拠点やアウトソーシングセンターを移すことで、顧客だけではなく内部プロセスに関してもさらなるグローバル化を広げた。またシンガポールやアイルランドのような法人税が低い国にHQやRHQを移した。まさにフラット化する世界のことだ(*3)。
最後に4つ目としてはさらなるグローバル化の加速の末に多国籍企業の従業員に高額なサラリーを提供し優秀な人材を集め、各国には多国籍企業と無数のローカル中小企業群という2つの分断された格差構造が生まれるようになった。さらには多国籍企業の社員は高収入の代償として過度のプレッシャーの中でモーレツに売ることとコストを下げることでグローバル化に拍車がかかった。その行く末が多国籍企業社員とローカルの格差だ。この格差への不満が今のトランプや英国のEU離脱につながっている。
実は日本は特殊な例外でまだこの企業間の格差の分断構造は顕著に生まれていない。資本市場が開かれておらず企業売買がなかなか進まないこと、日本の大企業を辞める人が少ないことと多国籍企業同士の取引が国内の大企業間の中で完結されているので、海外からの多国籍企業の参入が妨げられているためである。しかし小泉内閣時代からの非正規雇用が増えたことや一部の大企業の給与が伸び悩んだこと(あるいは倒産したこと)はこれらの国外からの波の影響による格差を生んでいることには変わらない。つまり雇用形態や給与という形で格差が生まれている。
しかしながら過剰な消費と不当な労働に支えられつつ拡大を続けてきた多国籍企業のモデルは飽和していることをコロナは気づかせてくれた。自宅で自粛する中で動物化した消費者も適度な消費量に気づき、わきまえるようになってきた。そしてやがて人間的な消費へと回帰することだろう。
その中で多国籍企業も硬直化した組織の中で次の一手が打てずにいる。実際の強みがコストでしかなかったからだ(イノベーションは小さな企業でしか起こせないイノベーションのジレンマだ(*4))。しかし今まではプロダクトを作る上でひどく複雑で設備投資コストが求められる中で市場ニーズにあった良いプロダクトを安く提供できたことが多国籍企業の優位性だった。しかし今はテクノロジーとグローバル化が発展したことで工場を持たずとも心を踊らせる商品を生産して提供することができる。ベンチャー企業でも信用さえあれば新興国の工場で商品を作り世界中の市場に届けることができる。さらには3Dプリンターのようなテクノロジーも生まれコンビニやガソリンスタンドでも商品を手に入れる時代になってきている。奇しくも多国籍企業が切り開いたグローバル網によって誰もがアクセスできる時代になっているのだ。
これからは「Local Roots, Global Reach」の時代になる。もはや消費することにも飽きた僕たちにとっては洗練されたプロダクトなんて不要なのだ。これからはローカルゆえ尖りがあり少し痛みはあるが味わいのあるちょっと温かい商品が世界を制するだろう。地産地消でありつつも、世界で愛される商品。イタリアやドイツの生産物の海外輸出比率は80-90%になるそうだ。だが彼らの多くは多国籍企業よりもローカル企業であり続けつつローカルの雇用を守りイタリアブランドやドイツブランドで商品を売っている(グローバル化を目指して失敗した企業も多かったが)。包装に使われる言語だけを変えてあたかもローカル化して見える商品はもはや誰も望まず、ローカルなモノ自体を楽しむ時代になっているのだ。フランスの冷凍パンみたいにね。
*1 「動物化するポストモダン」東浩紀
*2「コア・コンピタンス経営―未来への競争戦略」ゲイリー・ハメル、C.K.プラハラード
*3 「フラット化する世界」トーマス・フリードマン
*4 「イノベーションのジレンマ」クレイトン・クリステンセン
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