【BOOK】『傲慢と善良』辻村深月:著 傲慢さと善良さを乗り越えるためには
誰の中にもある自己愛を傲慢と捉えるか、それとも善良と捉えるのか。果たして自分はどうだろうか、と考えた。
ずっと善良だと思っていたが、それはある一面に過ぎなくて、傲慢と映ることもあったのだろう、ということに気づいたとき、心を覆っていた厚い皮をべりべりと剥がされてしまったように感じた。
辻村深月さん本は初めて読んだ。タイトルに惹かれて。
受賞作品も多数あり、映像化されているものも多い。
2004年『冷たい校舎の時は止まる』で第31回メフィスト賞受賞。
2011年『ツナグ』で第32回吉川英治文学新人賞受賞。
2012年『鍵のない夢を見る』で第147回直木三十五賞受賞。
2018年『かがみの孤城』で第15回本屋大賞受賞。
と、上げればキリが無い。
本書『傲慢と善良』は、2019年、第7回ブクログ大賞(小説部門)受賞している。
ーーーーーネタバレ注意ーーーーー
傲慢さとはなにか
本作品ではタイトルにある「傲慢」と「善良」という言葉が頻出する。
二人の主人公、架(かける)と真美(まみ)の物語。
冒頭、真美が失踪するシーンから始まる。
架が昼間に電話したものの、ほとんど会話できずに、その日は深夜に帰宅。
真美の失踪に気づいたものの、何かの間違いだと信じ込もうとして翌日になって異常事態だと認めざるを得なくなる。
ここに最初の「傲慢」が隠れている。
架は真美との結婚を意識してはいたものの、結婚したい気持ちとしては70パーセントだという。女友だちからは、それは真美を70点だと評価していることと同じだと言われる。完全には否定できない、ということを架は自覚している。
それは、真美のほうから架を振ることはない、という根拠のない「傲慢さ」がそう思わせているのだ。
人は、基本的には自己愛があるものだ。と思う。
ごくありふれた家庭で育つことで、ごくありふれた自己愛が育つ。
その自己愛は、それぞれが住んでいる環境で生きていく上で、自分を守る原動力となる。
時に相手を見下し、自分の方が上だと言い聞かせる。
時に相手からの自分の印象を気にして、どう思われただろうかとぐるぐると考えるが、最後にはどうにか理由をつけて着地させる。
そうやって自分を、自分の心を守るのだ。
真美もまた、田舎のメンタリティを体現したような親との関係の中、「いい子」でいないと親を悲しませてしまう、という思考回路から、より「いい子」でいようとする。
それでいて、親には信用されていないと気づき、親の「常識」の狭さを分かってしまう。
親の決めた婚活相手はイヤだといい、自分で選んだ相手にも会話が続かず幻滅する。
私はただ親の言うとおりの「いい子」でいようとしているだけなのに、どうして男性とお付き合いすることすらできなかったのか、と自分の「劣等感」にはっきりと気づいてしまうのだ。
善良であることとは
真美の実家がある群馬の、県会議員の妻がやっている結婚相談所、小野里が現代の婚活の問題点を指摘する。
親の言うことを聞きすぎて「いい子」でいることが、善良であるがゆえに「自分がない」という状態に無自覚でいる。これがよくないと言っているのだ。
たしかに、言うことをただひたすら聞いてその通りに動いていれば、自分のアタマで考えるということをしなくて済む。もっと言えば、自分で「決断」しなくてよいということだ。
何か小さなことであっても、何かを決断するということは面倒だし、やらなくてよいならやりたくない、と考えるのは自然なことだろう。
だが、それではこどもは、親がいないと何も決められない人間になってしまう。
傲慢さも善良さも、周りを傷つけずにはいられない
そして、善良すぎること自体も不幸を生むことになる。
真美の両親の行動も、行き過ぎるがゆえに、真美の将来にも障壁となって立ち塞がる。
真美自身も、自身の世間知らずを自覚したものの、親に対する後ろめたさがまだ抜けていないことを知る。
その結果、「いい子」に生きてきた真美は、うまく世の中を渡っていくことができずに苦しむことになる。
善良であることを突き詰めていくと、非常に危険で、無自覚に相手を傷つけてしまう。
それはもう、傲慢であることと表裏一体とも見えるのではないか。
結婚とは、人を愛することとは
架は、真美が失踪し、探す手がかりさえ掴めなくなって、真っ先に自分のことを考えた。
真美の失踪を心配することと、自分の孤独の不安との、バランスが取れていない。
それはやはりまだ、この時点では架は「傲慢」だったからだ。
だから、苦しくなる。
おそらく、人を愛するということは、相手よりも自分の孤独を不安に感じる傲慢さが、砂が手からこぼれ落ちるようになくなって、自然に相手の存在に思い至ること、なのではないだろうか。
架は真美が失踪してから、真美が過ごしてきた群馬での生活をたどり、真美が何を考え、何をしていたのかを少しずつ知るために動き回る。
そうした行動があったからこそ、自身の傲慢さに気づき、少しずつ修復していったのだろう。
「愛とは、気にかけること」
昔、学生時代にボランティアで足を運んでいた障害者施設の廊下に貼ってあった言葉だ。
今も、この言葉に試されているような気がする、と言ったら傲慢だろうか。
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