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【雑司ヶ谷霊園】竹久夢二の墓
「墓」ってなんだろう。
そんなことを考えたのは、先日気まぐれに降りた東京メトロ副都心線・雑司が谷駅周辺を歩き、偶然にも雑司ヶ谷霊園にたどり着いたからだ。
墓は、遺体や遺骨を葬ってある「場所」のことである。一般に、そこに墓があることを示す目印「墓標」(ぼひょう)を設置する。墓標というのはやや抽象的な表現だが、具体的にはたとえば墓碑、墓石などのことである。まれに墓標が置かれない場合もある。
少数意見だとは思うが、私は自分の墓はなくてもよいと思っている。
先祖代々の墓がある人、自分の生きている間にこういう墓にしたいと考える人はいるだろうが、それ以外の人は遺族がどういう墓にするか決めるわけなのだろう。そこには生きている者の都合が多分に含まれているような気がして、少し違和感があった。
墓などなくていい。
生前親交のあった人に、たまに思い出してもらえれば。
そう考えている私だが、雑司ヶ谷霊園を歩いてたくさんの墓を見ると、墓に対する人の思いというものを感じずにはいられなかった。
雑司ヶ谷霊園
雑司ヶ谷霊園は東京都立の霊園。
もと雑司ヶ谷旭出町墓地を東京府が引き継ぎ、明治7(1874)年雑司ヶ谷墓地として開設した。
明治22(1889)年に東京市に移管、昭和10(1935)年には「雑司ヶ谷霊園」と名称変更。
泉鏡花、大川橋蔵、小泉八雲、竹久夢二、永井荷風、夏目漱石など、著名人の墓が多くある。
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約12ヘクタールの敷地に、広々とした舗装された車道が通っていて、緑豊かな公園を散歩しているような雰囲気だ。あまり怖いという気持ちにはならない。
いろいろな宗派の墓があるのが印象的で、特に墓石に十字架が刻まれているキリスト教と思われるものが多い。外国人のものもある。
生前の偉業を誇示するような大きく豪勢なもの、誇らしげに階級や身分を記した軍人や華族のもの。清貧だがよく手入れされているもの。中には親族が訪れることがなくなってしまったのだろうか、草が茂り荒れ果てている墓もあった。
墓誌に目をやると、天寿を全うした人、対照的に幼くして亡くなった子供、色々な人生が偲ばれる。
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竹久夢二の墓
著名人の墓は訪れる人も多いようで、きちんと案内の看板が立っている。
たくさんの墓を見て回ったが、印象に残ったのは竹久夢二の墓だ。
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竹久夢二と言えば、あの大正ロマンあふれる美人画がすぐに思い浮かぶ。
あのイメージを壊すような無粋な墓ではあってほしくない。
そんな思いを抱きながら訪ねた夢二の墓は、まさに美人画のようなはかなげな、素敵な墓なのだった。
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通路から奥まったところに囲いもなく、小さな墓があった。
画家の有島生馬による揮毫で「竹久夢二を埋む」とだけ刻まれた飾り気のない墓石が、死を悼む気持ちを静かに表しているように感じる。
比べるのはなんだが、夏目漱石の威風堂々とした墓を見た後のこの夢二の素朴な墓には、小さな野の花を供えたくなるような、そんな趣がある。
窪田空穂の墓
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窪田空穂(くぼたうつぼ)は長野県生まれの歌人・国文学者。
本名は窪田通治(つうじ)。
東京専門学校(現早稲田大学)に入学したが翌年中退。のち再入学して文学科卒業。新聞・雑誌記者などを経て、早大文学部教授となった。
初期の「明星」に参加したが離れ、自然主義文学の潮流を短歌に導入した。
歌集に『まひる野』『土を眺めて』などがある。
窪田空穂のことは知らなかったのだが、オーソドックスな四角い形の墓石がある敷地の片隅に、親族が書いたものだろうか、手書きのボードが置かれていて心惹かれた。
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このボードによると、空穂は次女を亡くし、妻を亡くし、次男をシベリアで亡くしている。
記された空穂の歌に込められた悲しみが胸を打つ。
特に次男茂二郎を失った心情が痛烈だ。茂二郎を悼んで詠んだ「捕虜の死」は史上最大の長歌だそうで、我が子を亡くした空穂の慟哭に胸を締め付けられた。
早大教授時代に学生を戦地に送り出した時の歌や戦争賛美の歌もあったようで、改めてこの時代を生きる辛さというものを感じてしまう。
墓とはなんぞや?
帰りがけに管理事務所の裏手を通りかかると、柵の中にひっそりといくつかの石碑があった。後で調べるとそれは遺族が引き取りを拒んだ死刑囚の納骨堂なのだった。
世の中にはまだまだ知らないことがある。
あの石碑を思い出すと、何とも言えない寂しい、苦い思いがこみ上げる。
対照的に親族の思いが詰まった個性豊かな墓を思うと、墓というものは愛する者を失った生者の心の拠り所なのだという気がしてならない。
死んだ後まであんな狭いところに閉じ込められるのはごめん、という私の気持ちは変わらないが、自分が死んだあと、親族がどんな墓を作るのか、上から眺めてみるのもおもしろいかもしれない。