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自己否定をやめる(1日目〜3日目)ーー具体的方法と疑問点

うえの記事に示した通り、『自己否定をやめるための100日間ドリル』を実践中である。

本日で3日目ということで、勢いのあるうちに1度目の記録をしておこう。
今日書いておきたいことは、実践するにあたっての具体的な方法と、実践していく中で見つけた疑問点である。

実践法

日記アプリの活用

日々の記録をするために、日記アプリを活用することにした。
手書きで書きたい日はノートに、隙間時間で記録したいときはスマホでという形で特に明確な線引きはせず、ゆるっと使いたい方でやる。

スマホの無料日記アプリの画面


日記アプリの具体的な使用方法は、
タイトルに「〇日目」と入れ、思いついたら随時書き足してゆくという形にした。
一日の終わりにまとめて書くというのを毎日というのは結構しんどい。
「書く」という行為そのものがすきな私ですらしんどい。
高頻度で手書きで日記をつけるタイプではあるが、それでも毎日は無理だし、したくない。
疲れ切っている寝る直前に、スマホに今日の出来事を打ち込むというのは結構ハードな作業だろう。
それに、そもそも毎晩規則正しく睡眠をとるタイプではない。
移動時間や休憩時間、ただSNSをぼーっと見ている時間を活用して、一行でも単語でもいいから、書くというのが無理のない方法だろう。
インスタのストーリーをあげたり、ツイートすることがある程度習慣になっているのでこれは余裕。

手書きで書く

先述の通り私は「書く」という行為が好きなほう。
そして「手書き」も好き。
ということで手書きノートも活用することにした。

自己否定を書き出し、それに反論。

また、本書の前半には、自己否定を書き出し、それに対し徹底的に反論するという第一段階がある。
これは、手書きの方が圧倒的にやりやすい。
誰にも見せるものでもないから、自分でも読みにくいほどの汚い字で思いつつくままに書く。
そしてそこから線をひっぱって、反論する。
反論するときは、大切な友人がそう言ってきたときに自分はどう返すのかイメージをしながら書く。

まとまった時点でnoteにアップ

これは今やっていること。
私は、ある程度形式を意識して書いた文章は誰に見られてもいい派、なんなら公開したい派である。
それを活かし、進捗を目に見えるように、また客観視できるようにしたい。

以上が具体的な方法。
まだ三日目なんで、不都合があれば随時柔軟に変更する予定。


自分への語りかけ

これは記述方式ではなく、完全に脳内で行っている。
朝起きた瞬間、「無理。今日こそ死ぬぞ。」と思うエブリデイだが、自己否定三十年世界ランク入りはそれでも動けてしまうから恐ろしい。
動けてしまうときには「いまのままで大丈夫だよ」と自分に言い聞かせる。

もうひとつ実践しているのは、頭の中に、幼い頃の自分がいることをちゃんと認識し、なるべくその子に話しかけてみるということ。
めちゃくちゃ無理して働いたり大急ぎで移動したりしてしまっているときは、おぼつかない足取りの幼い私が頑張ってついてきている感じ。
「ごめんね、少し急ぐね。」と語りかけてみる。
そうすると、その子が「わーーーー!」と急ぐのを楽しもうとし始めたりもする。私も合わせて「おりゃーーーー!」と言ってみる(心の中でね)。
これ、結構面白い。

私はお腹がすくと手の付けられないほど不機嫌になる子どもだったし、今もそれはあんまり変わらない。
なのでお腹がすいたり、足が痛いときには「おなかすいたねぇごめんねぇ、なんか食べなきゃねぇ…」となるし「足いたくなちゃったね、帰ったらちゃんとマッサージしようねぇ」となる。

ちなみに、接客しているときや授業しているときの大人みたいな顔した私のことを、幼少期の私は口をポカンと開けて見ている。


疑問点

私を罵倒(否定)してくる具体的な人?

まだ三日ではあるが、実践する中で疑問点が出てきたのでそれも記録して置こう。
まず、本書には「あなたを罵倒してくる人は具体的にいる」と述べられている。
私はどんなに考えても罵倒(否定)してくる人間が具体化されなかった。

最初、頭に浮かんだのは小学校二年生のときに私をかなり陰湿にいじめ続けた女の子だった。
その頃のことは一年に三、四回ほどしか思い出さなくなっていたが、まだまだ根深くて私は傷ついているんだなぁと思った。
確かに当時の私は可哀想だし、今の私なら小学生相手とはいえ理論で言い負かしてやるぞと普通にお怒り案件である。
しかし、だ。
その出来事以前に、私はすでに自己否定していた。
幼稚園の年少の頃から死にたいというようなことを思っていた記憶がはっきりある(その景色は幼稚園の入園式の場面でいつも再生される)。
しかし、4歳以前に誰かにおざなりにされた記憶はない。
やっぱり私、自己否定自家発電してないか?と思ってしまう。

そして自分の書いた否定の言葉を発しているのは誰かとイメージすると、理論的にふるまっている自分が浮かぶのである。
正確には、いじめてきた女の子の手を引き、理論を補強するためにたまに母親や妹を連れてくる自分だ。
えー、もう自分の敵は自分やん…。
やはり、私の中にはもう一人、ものすごく自分にも他人にも厳しい私がいるようだ。
この辺は、本書とはズレている私の特性だろう。
臨機応変にやっていこう。


幼い頃の自分、要求なさすぎ

次に立ち現れる疑問は、幼い頃の自分が何を求めているのか、である。
まだ三日目なので仕方がないが、彼女、全く要求しない。
何が食べたいのだろうか
何が欲しいのだろうか
どこに行きたいのだろうか
いまのところさっぱり分からない。
今も自分自身、何が好きとか何がしたいとか分からないから、これは自明のことだろうか…。
私が走れば彼女はついてきてくれるし、基本「むぅ…」って感じ。
あれ、今と変わんないな。

ここは根気よくやってみよう。

以上。
また気が向いたらまとめて記録する。


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