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自己否定をやめる(4日目~11日目)――外見について
自己否定をやめる実践中の記録。
継続が得意な私。しっかり三日坊主にならずにやっている。
前回書いた以下の具体的な方法は今のところ変化なし。
罵倒してくる具体的な人物はやはり特定できていない。
幼い私は相変わらず要求が少ないが、「早くねたいよ~」とたまに言うようになった…気がする。
日記アプリには大抵「今日も朝からだるい」とか「今日も目覚めは最悪」と書いてある。
朝が苦手だということを再認識している。
「朝はすっきり起きて○○するべきだ」などと考えるのはやめて、だるくて最悪なことを受け止める。
私は脅迫的になりやすいタイプなので「○○しなきゃ」「○○したほうが良い」などはなるべく手放す。
いっぱいいいっぱいになっている幼い自分に「今のままでいいよ」「大丈夫」という言葉をかけている。
以下に、11日経過して新たに生まれた疑問と変化を記録する。
疑問①外見に対する否定
坂口恭平『自己否定をやめるための100日ドリル』において重要視されていなかった最大の自己否定に向き合わざるを得なくなった。
「外見」への自己否定である。
なぜ本書に、自己否定に深く関わる「外見」に関する記述が少ないのだろう。
この点は、ジェンダーの問題が大きく関わるのではないか。
今年5月に文芸春秋から出版された『私の身体を生きる』という書籍がある。
「文學界」連載を書籍化した本書には、総勢17人の書き手によって身体にまつわるエッセイがまとめられている。
私の最愛の作家である金原ひとみも名を連ねており、身体に関するトピックに関心を抱く私にとって印象深い一冊であったのだが、あえてひとつ批判を投げたい。
それは、書き手に女性とマイノリティーを自認している人が選ばれているのはなぜかという視点からの批判である。
身体は、誰しもが共通して一生付き合わねばならない器である。
にもかかわらず、なぜ書き手にマジョリティである「男性」がいないのか。
ここでこの問題をこれ以上深堀りはしないが、じっくり考えるべき課題である。
私は幼い頃から「可愛い/可愛くない」の価値基準を取り入れていた。
「細い/太い」も幼稚園の頃から意識していたし、小学三年生頃には既に「ダイエットをしなければならない」と思い込んでいた。
問題が起こるたびに「自分は可愛くないからうまくいかないのだ」と自分の容姿を責めた。
12歳になれば初潮を迎え、痛みや不快感を味わう。
その頃からは、どことなくムチムチしているような身体感覚に悩まされた。
その後、摂食障害になった。
今でも、自分の見た目が醜いから愛されないのだ、孤独なのだ、うまくいかないのだと自然に考えている。
私にとって「自己否定」は、「外見否定」と強く結びついている。
当然、自己否定をやめる100日を遂行していく中でそれと向き合わざるをえなくなった。
うーん、難しい。
他者からの評価がこの自己否定には一番効くのではないかと思ってしまう。
「外見否定」に対し自分自身にかける言葉が「でも○○さんは私のことを可愛いと言っていた」になってしまうのである。
なんだか違う気がする。
もう少しのんびり考えてみようと思う。
疑問➁他者批判
『自己否定をやめるための100日ドリル』は、他者否定はしないけれど自己否定をしてしまうという前提で書かれている。
もちろん私も他者を否定するような言葉を誰かに言うことはほとんどない。
しかし私は、他者否定とは言わなくとも「他者批判」は強いほうである。
「なんでこんなこともできないのだろう…」と人に対して思ってしまうことがある。
自分に厳しい人は他者にも厳しくなりがちだというのは、周囲をみていても感じることだが自分にも言える。
私が頑張ればやれることを、「この人はなぜできないのだろう」もしくは、「この人はなぜ頑張らないのだろう」と思ってしまう。
接客業の民には共感していただけると思うのだが、どうだろう…。
なんで三秒考えれば分かることを言ってくるのだろうか…と日々イラっとしている。
人にはそれぞれのみえている範疇があるということは承知だし、そのように口では言うが、内心「なんでですかね?」とイラついてしまう。
人に誠実でない行動を普通にしている人が怖いのかもしれない。
分からないものは怖い。
なぜレスポンスしないのか?LINEで「了解」くらい10秒あればできることではないか。
なぜ謝罪やお礼を怠るのか?
なぜ自身が一番偉いかのような言動を立場の低い人に対しすることができるのか?
職業柄、社会のあらゆる事象に対し批判する視点が強いのは仕方がない。
とはいえ、人を社会的にではなく人格的に批判するのはよろしくない。
自己否定の世界ランク保持者は、他者への批判も同時にあるのであった。
自己否定が少なくなれば、この辺りも緩くなるのだろうか。
乞うご期待。
良いかもしれない変化
疑問点ばかり書いてきたが、そろそろ良い(と思われる)変化についても記録しておこう。
まず、記録することで自分の視点が可視化され、自分の持っている自分を守るために活用できる知識が活かされる。
「そりゃだるいのは仕方がないぜ(生理前だし)(今日は気圧がよろしくないし)(満月だし身体が重いかもしれない)(オイルマッサージをしておこうか)(胸鎖乳突筋が凝っているかも)」といった感じ。
知識大好き左脳マンの私、知識が活かせる場があるとテンションが上がる。
そして何より、他者の動きを気にする感覚が少し減ったのがうれしい。
自分のことを自分でなんとかするという重要な作業中のため、
必然的に他者に対する「○○してあげなくては」が後回しになる。
私の「○○してあげなくては」は、誰かが困っているときだけでなく常時発動するため、これを誰かが困っているときという場面だけに限定できるととても身軽な気がする。
自分を大事にできてはじめて人を大事にすることができる的なことなのだろうか。
以上。
疑問点、変化ともにまだまだのんびり観察してゆく。
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