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うつになってよかった

高校1年生のとき双極症(双極症、躁鬱病)を発症した。双極症とはめっちゃ元気な時(躁)と、うつを繰り返す病気だ。今回は「#想像していなかった未来」への応募として、あれだけ憎悪していたこの病気になってよかったなと思えるようになったことについて書いていきたいと思う。



「元気」だったあの頃



高校までは普通の人より元気だった。多分、中3くらいから小さい躁状態だったんだと思う。

中学では、ソフトテニス部で県2位を飾り、県内トップの進学校に最低点+50点で入学した。高校に入ってからも、東大を目指しながら、初心者として入ったバドミントン部で県ベスト8の団体メンバーに入るように必死に努力していた。
あのころは能力主義に取りつかれていたんだと思う。
仏教には誰もが持つ五欲(食欲、睡眠欲、色欲、名誉欲、財欲)というものあるが、私は名誉欲が異常に飛び出していた。残念ながら今もわりと強い。勉強ができる、スポーツができる、つまり能力があって、ほかの人の「上」にいるものが偉いんだということを本気で思っていた。
欲というものは留まることを知らない。ご飯はいっぱい食べてもお腹が空くし、幸せな時間を過ごしたらまた、それを得たくなる。しかも、もっと完成された形で。
だからたぶん団体メンバーに入っていたら、県トップを目指していただろうし、東大に入れたら主席を目指していたりしただろう。それが実現可能かは別にして、目指さないと落ちていくだけだと思っていた。そんな終わりのない沼にはまっていくようなことが苦しいのは、今考えれば当たり前なのだが、当時はたぶんおかしかったんだと思う。
勉強と部活という仮面をかぶった名誉というものに取りつかれていた僕は朝から晩までその2つに打ち込んだ。それ以外はどうでもよかったのだ。

でもやはりそれに心身は耐えられなかった。
夜でも異常に興奮して、眠れなくなった。そしてその反動として全く体を動かすことができなくなり、学校に行けなくなり、留年の危機にさらされたので仕方なく、通信制高校に入ることになった。



地獄の始まり


そこからうつと躁を繰り返す地獄が始まった。
通信制高校に移りたての僕はうつだったのと、学校に行かなければならないという苦痛から解放されて勉強する気になれなかった。
それでも何かやらないとまずいと思い、ホテルの清掃のバイトを始めた。朝9時から午後の3時までのバイトなのだが、この時間帯がまずかった。ほかの人が学校に通っているのと丸被りしているのである。全日制高校で勉強と部活に打ち込んでいたとはいえ、もともと社交的で友達が多かった僕は、全日制高校で充実した毎日を過ごしていた。だからこそ、あのときの自分と比べて、そして今青春を楽しんでいる友達と比べて、自分はいったい何やっているんだろうと感じることを止められなかった。結果的にその一か月でバイトを辞めた。



受験


バイトを辞めて、うつからも回復してきた僕はまだ能力主義を手放せなかった。通信制高校は授業に縛られなくていいという事実を盾に今の自分を無理やり正当化して、勉強に打ち込むようになったのだ。1日11時間勉強して、それを数か月続けては、うつになって死にたくなり、予備校に入っては、それもうつになって死にたくなった。
こういうのを、何度も、何度も、何度も、何度も、繰り返した。模試の成績が良かった高校3年生の受験も、受験日の2週間前で大きな鬱に見舞われて受験できなかった。
そしてもう2回ほど躁とうつを繰り返して、一般受験を諦めた。

もう無理だ、どんなに工夫しても、勉強したらうつから逃れることはできない。あれだけ勉強したのに、自分はどの大学を受験することも行くこともできない。まさに絶望だった。進学校と能力主義の中に浸っていた私は、自分がまさに負け犬という名にふさわしいと思い、その苦痛に耐えられなかった。

「うつさえなければ、この病気さえなければ、
僕はあの時のまま青春を送って、いい大学に行って、すばらしい人生を送れていたはずなのに」

ずっとそう思っていた。


しかし、僕は残された手を見つける。小論文と面接での推薦入試だ。
これが学問との出会いだった。小論文の塾で社会学を軽く学んだ私は小論文の勉強を始めてから2か月くらいで地方の国立大学に拾ってもらった。
僕の通っていた高校からすれば、1年卒業を延期して決して偏差値の高くない大学に行くのは「落ちこぼれ」だっただろう。

でも僕は結構満足だった。2か月の学問とのふれあいだったけれど、学問に少しだけ魅了されていた僕は大学で学べること、しかも一応国公立大学で環境も整っているところにいけたことがうれしかったのだ。今思えばこの時点で少しだけ能力主義から解毒されていたと思う。


人生の転換期



今は大学1年生なのだが、結論から言えば、大学1年生の前期は休学した。それは能力主義うんぬんじゃなくて、後述するがあまり生活の仕方がよくなかったからだ。

今回の記事の主題は、前期を休学して、後期復学するまでのことだ。ここが僕の人生の転換期だった。

といっても、衝撃的な出会いがあったわけでも留学したわけでもない、至って平凡なことである。

それは、心理学という学問との出会いである。もともと自分の病気について勉強するためにいろんな情報を漁っていたのだが、それは学問ではなかったし、必要以上の病気についての情報を摂取していた。

しかし、学問というものと、趣味で漁っていた、勝手にやってしまう病気の勉強というものの結節点が心理学だった。

精神医学でもよかったのだが障害学を学んでいた僕はそれと対立してるともいえる医学にはいけなかったし、薬には興味ないし、医学部にいくと精神医学以外も勉強しなきゃいけないし、そもそも医学部にいける頭がなかった。だからまさに心理学は運命の出会いだった。

なぜ運命の出会いかというと、心理学が、もっといえば(認知)行動療法が僕の生活スタイルを大きく変えてくれたからである。認知行動療法の詳細は省くが、それによって、夜10時に寝て、朝7時におきて、運動して、読書して、料理するということができるようになったのである。今までは一日10時間スマホ触る日があるくらいだった。だから大学の前期は休学という結果になってしまったのだと思う。スマホを触ってストレスをためる生活から、趣味でストレスを解消し、運動でストレスに耐性のある生活を送れるようになったのである。

とりわけ読書の習慣がついたのは自分にとってとても良い結果を生んだ。いまは学問にどっぷりつかった生活を送りたいと思っているし、少しずつそうなっている。心理学を基本に、精神医学、教育学、哲学・宗教、障害社会学、障害学、医療人類学など、僕の心躍るものに囲まれて素晴らしい日々だ。あれだけ生を断ち切りたいと思っていたのに、今ではいつまでもこれが続けばいいと思っている。

うつも排除すべきものとして嫌悪していたのに、今ではうつになってもまた戻ってこれるだろうなという自信がある。でもたぶん深いうつにはならないような気がする。それは学問との出会いによって、自分が今の社会の呪いから距離を置けているからだし、心理学がそうしてくれたように、学問がうつになったときに助けてくれるという確信があるからだ。

それは能力が至高だと思っていた僕に人と人との関係の豊かさについても教えてくれた。
人間は夢を叶えるために能動的に動く主体なんかではなく、「人間」という文字のように、人と人の間に生きているのだということを学問は教えてくれた。つまり、わたしは「わたし」ではなく、人と人との関係の上に生きているのであり、自分というものは、「わたし」1人なのではなく、たくさんの他の人やモノによって構成されているのである。みんなそんなこと意識していないかもしれないが、そうやって生きている人はたくさんいる。

僕がいい成績を取っても親は関心を示さない。でも僕が付き合っている女の子や仲のよい友達の話をするとよく聞いてくれる。たぶん結婚式あげたらみんな泣いてくれるだろう。
僕が主体としての人間であるかどうかは他の人にとっても些細なことなのである。みんな他の人との関係性のうえで生きているのである。だからその人が名誉や能力を持っていたり、自律した主体であるということではなく、その人との関係性のうえで生き、それを大切にしているのである。そんな「分かりきったこと」を今更ながら学んでいる。

うつになっていなかったら、なまじこの社会の波に耐え続けていたと思う。あのとき社会から病気によって、強制的に逸脱させられていなかったら、僕は人の大切さも、学問という素晴らしさも知らずに、社会の中の「個人」として生き続けていただろう。炭鉱のカナリアとして生きられてよかった。うつに早めになったから、学問と出会えた。




これらの出会いはこれ以上ない幸福である。こんな病気に感謝するとは思っていなかった。これが想像していなかった未来である。

ただこれらは結果論にすぎないということに注意していただきたい。一般的に見て双極性障害は発症しないほうがいいし、精神疾患はないほうがいいだろう。たまたま僕は病気というものを通して得られたものが大きかっただけであるから、苦しい思いをしてる人にそれを強制するのは残酷なことだ。

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