無防備都市(Roma città aperta)
イタリアのネオレアリズモの映画を見ていると、なんだか他人事ではない気がしてくる。古くて、暗い映画と思ってしまう人も多いと思うけれども、今だから見て欲しい作品たちばかりだ。ただの歴史、過去の話として葬り去らないでほしい。今コロナという予想だにしなかった災害がやってきて、仕事を奪われた人、住まいを失くしてしまった人もいっぱいいる。戦争が人々の生活を変えてしまったあの頃の時代の映画を見ていると、私は翻って今の状況とダブって見えてしまう。それに今だって世界はファシズム化していると言っても否定はできないだろう。アメリカもヨーロッパも日本も。こういうものはじわじわと、至極当たり前のように、忍び寄ってくるのだ。
無防備都市(原題:Roma città aperta)1945年 ロベルト・ロッセリーニ監督による映画である。昨日紹介した「戦火のかなた」の前年に撮影されている。あらすじとしては、イタリアは戦争に負けムッソリーニ政府は崩壊、ドイツ軍占領下時代。レジスタンスの指導者をドイツのゲシュタポが追う中で、そのレジスタンスの恋人、友人、その家族など周辺の人たちがどんどん巻き込まれていく話。
それこそまだ戦火の跡が残るローマにて、この映画が撮影されたこと自体がまず、すごいと思う。(ロッセリーニはまだドイツ占領下の1943年にも別の映画を撮っていたというから、その創作意欲には恐れ入る)本映画を見たことある方は「無防備都市」がネオレアリズモ映画の代表作であるにもかかわらず、同ジャンルの他の映画と少し趣が違うと思われるかもしれない。その違和感はその通りで、何点か変わった点がある。まず素人ではなく、アンナ・マニャーニや アルド・ファブリーツィ(コメディアン)などの人気俳優を登用している点が典型的なネオレアリズモ映画とは異なる。アンナ・マニャーニはソフィアローレンより前の世代のイタリアを代表する女優である。あの風貌、腰付きのいい体格と勝気な感じの女性は、イメージされるイタリア女(特に南イタリア)を演ずるのにぴったりだ。淀川長治も「イタリアで一番好きな女優」とどこかに書いていた。私もアンナ・マニャーニを見ていると目を逸らさずにはいられなくなる。なんだろう、不思議と。あのハスキーヴォイスとセリフの力強さ、顔も特徴的で、そして何よりも迫真の演技に思わず涙させられる。家族を守るためにお上にたてつく、小さきもののために立ち上がる、そんな強い女性を演じるのに彼女は本当にうってつけで、私は映画の中の彼女の存在に何度涙したことか。彼女を見るだけでもこの映画を見てほしい。(彼女が夫となる人を追いかけるシーンは名場面中の名場面。彼女が全速力で走る姿は網膜に焼き付いて離れないほど悲しい。)
あとはこの映画は大変ドラマティックである。翌年撮った「戦火のかなた」はよりドキュメンタリーに近いような気もするが、これはストーリーとしてもっと熱いものがこみ上げてくるのもで、大変面白く追えると思う。ちょっとこの系統の映画に苦手意識を持っている人でものめり込めると思う。
この映画ではドイツとイタリアの国民性も(もちろんファシストの人々の発言なので偏っているけれども)見れることも面白いかもしれない、ドイツ国民は基本的にイタリア国民のことを、「ロジカルさに欠けていて、建設的な話し合いが下手」と下に見ている。このゲシュタポの拷問によりレジスタンスの1人は結局死んでしまうのだが、それによってイタリア人の誇りは保てたという勝利の感覚が残るのも、他のレアリズモ映画と趣が違う一つの点かもしれない。
本映画を見て、イングリッド・バーグマンがロッセリーニに熱烈なラブレターを送ったというエピソードは知っている人も多いであろう。ハリウッドで人気絶頂の女優が、ネオレアリズモの映画に惚れてしまったというのは、あまりにも皮肉である。映画界を揺るがす大きな出来事だったに違いない。結果イングリッド・バーグマンはハリウッドから総スカンを喰らったけれども、(寵愛していたヒッチコックも怒り狂ったし)これによって世界がネオレアリズモ映画を見る目も変わったのではないか。(その後二人は駆け落ち、結婚。イザベラ・ロッセリーニが生まれる。)
ちなみに細かいが、神父がキャベツのスープを作ってる場面がある。日本人にはあまりない感覚だが、キャベツ(Cavolo)はイタリアでは不味そうな食べ物の代表格だ。貧相な食べ物で、臭くてあまりおいしくないというイメージが強い。「ああCavoloか」と残念な反応を示すイタリア人が多い。だからネガティブなイメージだ。(ちなみに私の夫は息子に「Che cavolo fai ??!(何やってんだお前)」と怒鳴りつけることが多い)
この映画はもともと3エピソードで構成する構想だったらしいのだが、結局一つのストーリーにまとまったものだそうだ。だからなのか、これと言った唯一の主人公というのがいない。これがかえって功を奏していて、主人公は私たち市民なのだという点を強調できており、この物語は私たちの物語なのだと観客に意識させることに成功していると思う。シングルマザーもいれば、大家族、夜の仕事の女性もいれば、公職についていながらも弱い立場の人など、いろいろな立場の人に感情移入する。ネオレアリズモ運動の趣旨としても、これは本当に代表作だと、改めて私は感じる。
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