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仏教が教える人間が生きる意味と意義(後半)/引用

はじめにお断りしておきますが、
私は仏教に特に興味があるわけであり
ません。難しいですし、、、。

でも、伝えることで誰かが笑顔になっ
たり誰かの役に立つことは大切だし、
自分にとっての充足感につながること
もあるのでは?とは思っています。

※今日は後半をご紹介します。

(JBpressより引用)

行為と結果のループ

上杉謙信が出陣の際、士気高揚のため
「死中生有り生中生無し」と兵士を鼓
舞したが、
それは「死を覚悟して戦えば生き、生
きようと思って戦えば死ぬことになる」
という意である。
ヒトは生まれて最初の呼吸が死の始ま
りといわれる。
「死」とは生きている私たちの「生」
の中に最初から存在している。
死を定義すると、それは生命がなくな
ること。生命が存在しない終焉の状態
であり存在の停止を意味する。
肉体が存在すれば、いつかはその身体
は朽ち果て消滅する。死は私たちの隣
人のようなものであり、もし病になっ
たら病を受け入れ、死が迫ったら恐れ
るよりも向き合うことが肝腎ではない
か。
人間は誰もが老い、やがて死を迎える。

あるがままに死を迎え、受けとめる。
それが死というものをとらえるという
ことなのかもしれない。
仏教では、「死」と「生」は別のもの
として切り離して考えるのではなく、
それらは
全体の中の一部であり表裏一体として
いる。
つまり人が生きるということとは、老
いることであり、病むことであり死ぬ
ことすべてを意味する。
人は一人で生まれ、一人で死んでいく
が、その宿命を見ると、人間は実に孤
独な存在といえる。
人が、本能的に他の人との触れ合いを
求める理由は、その孤独に対する恐怖
によるものなのだろう。
私たちが死を恐れる理由として、まず
思い浮かぶのは、かけがえのない人達
との永遠の離別。
人生すべてを懸けて築き上げたものが
手から滑り落ちる喪失感。
永遠ともいえる冥(くら)い未知の世
界への戸惑いと恐怖。
そして、病や怪我による死に至る苦痛
・・・。
現世で慣れ親しんだものへの未練と、
そのすべてがリセットされる絶望感と
いったものがある。

『般若心経』には、人間がどのような
ものから構成され、どのような在り方
をしているかが記されている。
「五蘊皆空(ごうんかいくう)」の境
地に迫ることで、私たちを苦しみや憂
いから解き放つと説く。
それは私たちを構成する5つの要素であ
る五蘊(ごうん)を克服することに始
まる。

五蘊とは、すなわち5種類のものの組み
合わせによる要素、「色」「受」「想」
「行」「識」で、
色(自己の身体)、受(自己の感覚)、
想(自己の表象)、行(自己の意思)、
識(自己の認識)という「5つの自分
に対する執着」の集合を指す。
人間は、この5つの要素が特定の法則に
従って絡み合い、関係しあい存在して
いる。
そして、その「自己執着が消滅した」
状態が『般若心経』での「五蘊皆空」。
この「五蘊皆空」が般若波羅蜜多、
つまり智慧の完成を意味する。
それは「五蘊は存在するが、それ自体
には実体がなく、その本質は空性であ
る。
その空性という本質を見抜くことで、
この世の苦しみや憂いから解き放たれ
る」と『般若心経』は、その摂理を示
している。
また、『涅槃経』では覚性(かくしょ
う)を発揮することで苦しみに煩わさ
れることのない境涯を開くことができ
ると説く。
覚性とは、衆生が持つ仏としての本質、
仏になるためのきっかけとなるもので、
煩悩が残されていたとしても苦しみに
煩わされることなく、また他の人々の
迷いを晴らすことのできる境涯を開く
ことができるとされる。


「死」は瞬間的な点ではない

死は現世での自らの生命の終わりを
意味するが、その肉体が朽ちても、
なお生命は生き続けると仏教は示す。
生命の根本は常に存在し続け、個々
の特定の生命とともに存在するとい
うのである。
特定の生命の死は、虫が幼虫、さなぎ、
成体と変化するのと同じように、また
古い服から新しい服に着替えるのと同
じく、普遍的な命が古い肉体から新し
い肉体に移る節目のようなもの。
死は生の対極ではなく、その一部とし
て存在しているのだ。
死は瞬間的な点ではなく、生きるとい
うことの連続性と来世に移行するその
反復性という連続した線として仏教は
死を見据えている。

人が生まれ変わるのを輪廻という。
こうした死生観は、魂の循環を意味
する。
輪廻は物質に生ずるのではなく認識の
移転であり、そのプロセスは、生命の
死後、記憶が消滅した後、別の場所に
おいて新たに類似の記憶が生まれると
いうもの。
輪を描いて元に戻る車輪の軌跡のよう
に、生命が無限に転生を繰り返すよう
すを喩えたことにその名が由来する。
人が生きるということは、それ自体が
行為であり、その行為は結果として顕
われる。
その結果から新たな作用が生まれ、様
々なものに影響を与える。
人は、その言動、仕事や遊びなど様々
な行為の結果が波紋となり、その影響
は広がり続ける。
行為と結果と影響のループは宇宙全体
に作用を及ぼすのである。

橋を造った人は、多くの人がその橋を
渡れるという結果と影響を及ぼし、
本を書いた人はその言葉が多くの人の
生きる支えになるという結果が顕われ
るかもしれない。
人が為した結果の影響は生きている間
も死んだ後も広がり続ける。
輪廻とは、人が死んだ後の魂の循環だ
けでなく、生きる時の行為の永続的な
影響をも意味するのだ。

縁起とはすべてが繋がって、常に一瞬
一瞬、生じているが、原因があって結
果が生まれ、その結果が、新たな原因
となる。因果は繰り返され、波紋とな
って広がり続ける。

仏教は私たちの命は循環すると説く。
では、私たちは、何のために存在して
いるのか。

それは「どれだけ長く生き続けるか」
ではなく「いかに自身が幸せになるか」、
「いかに多くの人に幸せをもたらすか」
が、人間の生きる目的であり、それが、
私たちの存在理由ではないか。
なぜなら私たち人間の自我は、神の一
部だからである。
よって、私たちが心の震える瞬間を体
験したとするならば、神も私たちと同
じく心震える瞬間を体験しているに違
いない。

個々の命はいつか消滅する。
だが、永遠に生き続ける生命の根っこ
は常に側にある。そして生ある時も、
死した後も、輪廻は常に生じている。


後半は、少し難しかったですね?
「人間の自我は神の一部」?
「自我が消滅することが知恵の完成」
などなど、、、。

でも、私たちの存在理由が
【「どれだけ長く生き続けるか」で
はなく「いかに自身が幸せになるか」
、「いかに多くの人に幸せをもたらす
か」】らしいということは、再確認で
きました♪

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