馬の目~奈良公園・荒池のほとりに佇む和食店
1976年だったと思う。
午後2時を過ぎた頃、新緑の奈良公園を一人で散策していて、荒池のほとりに立つ古民家が視界に入ってきた。わくわくしながら近寄った。
「馬の目」という看板にも惹きつけられた。
もうすぐランチが終わる時間だったようで、とても上品で綺麗な女性が 暖簾を片付けようとされていた。
「お一人ですか。どうぞ」と店内に招き入れてくださる。
この女性が主人で、料理もされるのだという。
そこからはもう夢の中にいるような心地で、ちょうどそのころ古伊万里など骨董品に興味を抱き始めた23歳の私にとって、馬の目はこんな風に暮らしたいという憧れの空間、理想の空間として輝く存在になった。
それ以来、夫や母や、母の友人、奈良を訪れた私の友人たちを誘っては食事を楽しんだ。
店名の「馬の目」というのは馬の目皿から付けられたそうで、大中それぞれの大きさの幾枚もの馬の目皿が飾ってあり、それは見事な景観だった。
(写真を見ていると、いっとき我が家でも、四畳半の和室に黒い絨毯を敷いて長火鉢を置き、二月堂机を使っていたころもあったな、と昔が懐かしくなる)
奥の厨房からとんとんと包丁の音やしゅわしゅわと揚げ物の音がして、お料理が運ばれる。
丁寧に作られた料理が古伊万里や古いガラスの氷皿に盛り付けられ、口に運ぶとすべての料理がやさしく和やかな味。
名人の冴えわたる包丁の技、とか、和食の極み、とかいうのではなく、もっとほっこり気取らない、心尽くしの美しいお料理だ。
これが私と「馬の目」との出会いだ。
1980年に夫と娘たちと4年間暮らした奈良を離れ、大阪に転勤になった。1988年に大阪を離れ、海外転勤、その後は首都圏で暮らし始めた。
「馬の目」は記憶の中に温かい灯りとなって忘れることなく在り続けた。
2014年秋、夫とのセンチメンタル奈良旅に出かけた。
もちろん昼食は馬の目だ。
長い長い年月が流れていても、変わらない佇まいがあった。
女主人ではなく、若いご夫婦。
息子さん夫婦がお店をやっていらっしゃり、料理は息子さんが作っていらっしゃった。
「お母さまはお元気でいらっしゃいますか」
「はい、もう料理はしませんが奥にいて、隠居しておりますが、お花は必ず毎朝活けております」とのこと。
私は昔のシーンを話した。
「ちょうどお昼ごはんが終わるころ、きりりと制服にランドセルを背負った小学一年生ぐらいの少年が、ただいま!とお母様とにこやかに話していた、その少年が今こうしてお店を継いでいらっしゃるんですねえ」
自分たちの思い出と共にあるお店。そういうお店がいくつあるだろうか。
馬の目は私たちにとって、そういう貴重な存在のお店だ。
そして2023年10月。
大阪で久々に夫の同期入社の友人夫婦計6人と会うことになり、ならば奈良にもと足を伸ばすことにした。
「本日は予約でいっぱいなので、奥の個室をお使いください」と女将。
「最高に贅沢なお部屋だね」
「やはりお酒をいただくことにしよう」
いつもお昼は飲まない夫、こういう日は特別だもの。
迷わずに白鷹、夫の一番愛着のある銘酒。
熱燗。
盃を傾けると正午の鐘が聴こえてきた。
「元興寺さんの鐘です」とご主人。
お一人で厨房を仕切っていらっしゃるので、かなり忙しいらしく、焼物のあとの食事が用意されるまでずいぶん待ったけれど、まったく急ぐわけでもなし。
「ほんとうにお待たせして申し訳ありませんでした」
とご主人が、香の物、お味噌汁、栗ごはんを並べてくださる。
「勝彦さんはいかがお過ごしでしょうか」と夫がご主人に尋ねると
「もう亡くなられました。ちょうど6年前です」と教えてくださった。
奈良に赴任していたころ、何度も取材でご自宅に伺ったことなどを夫が話し、しばらく勝彦さんの思い出話をする。
季刊「銀花」第24号の第24号「佐藤勝彦現代仏道人生」特集号に挿入するため8万5千枚の肉筆画を描かれたその本を、今も大切に持っていること、骨董品の収集家でもあり、よく「棚買いの佐藤」と骨董屋から呼ばれていたことなども、懐かしい。
帰り際に女将に「お義母さまはお元気でいらっしゃいますか?」と訊ねた。
「はい、もう91歳ですが、とても元気にしております」とおっしゃる。
夢の中にいるような、まだ1976年ごろの時間にいるような、ただただ懐かしい時間が過ぎた。
奈良公園を歩く。
観光客を避けるように、高畑方面に歩く。
「娘たちが幼かったころ、友達とピクニックにも来たね」
春日大社の境内を横切る。
「Mのお宮参りは春日大社だったね」
まだまだ日没には時間がある。
もう一時間以上歩き続けている。
近鉄奈良駅に着いた。
特急で京都に向かい、伊勢丹でお弁当とビール、日本酒を買って新幹線で帰路につく。
忘れられない店がある。