フリースクールという選択肢
フリースクールという言葉を知ったのはいつのことだったかわかりませんが、わたしは小学生の頃から学校が苦手で、どうにかして新しい環境に進めないかと考え「塾に通い、中学受験をしたい」と自分から申し出て私立の中学校に入るも、そこでも息苦しさを感じてしまい、多額の学費を親に支払ってもらいながら不登校だった、という過去があり、そのことを親からはいつも責められていたので、学校のほかに居場所が欲しいなどと言う選択肢はなく、わたしと彼らはとても近い存在だけれど、決して交わることのない場所だと思っていました。
先日、あるフリースクールがクラウドファウンディングをしている、それを支援した旨のツイートを見かけました。ツイートをしていたひとが、わたしの敬愛する方だったので、興味を持ち、読んでみた上で、ほんの小額ですがわたしも寄付をしてみることにしました。
正直に言えば、経済的な理由"だけ"でフリースクールを断念する子どもに「羨ましい」気持ちはあります。彼らの目には私立の中学校に通える家庭に産まれたわたしがとても贅沢に映ることも理解しています。それでも彼らには少なくとも家庭には居場所があり、経済的には貧しくともバックアップしようとしてくれる家族という豊かな存在がいるということだから。寄付をすることで「彼らを救いたい」という大それた素晴らしい理由じゃなく、どこかで「わたしが救われたかったんだろうな」とも思います。
わたしが不登校だった頃、そのことを肯定してくれる家族はいませんでした。母親からは大人になっても責められるのもあって、今は距離を置いています。でも、わたしがいま生きているのは、たまたま素敵な大人にたくさん出会えたからです。社会の広さに気付いて、躓いた先に希望の光が見えたからです。
残念ながらわたしはまだ暗いところにいます。でも自分で選んだ家族と呼べるひとができました。コロナ渦で、しばらく会えてはいませんが「ほんとうの娘のように思っている」と言ってくれるひともできました。これからはきっと、生きてさえいれば明るいほうに進んでいけると思っています。
中学生にとって、社会と呼べる場所が家庭と学校しかないことはそう珍しいことではありません。だから彼らをすこし「羨ましい」とは思うけれど、それ以上に「世界は広いんだよ」って「学校と家だけが世界の全部じゃないよ」って、いま辛い思いをしている子に知ってほしいのもほんとうのきもちなんです。
学校が合わなくて、フリースクールでも、習いごとでも、なんでもいい、もし勇気を持って飛びこんでみた先が、もしもまたあなたに合わなくても、いつか合うところが見つかるかもしれない。しかしながら、それを幼い彼らが自分で探すことは、気づくことは、とてもむつかしいことです。ほんとうなら行政が出来ればいいのですが、それもまた困っているひとは彼ら以外にもたくさんいて、すぐにはむつかしいことです。でも、それが出来ないのなら誰でもいいから、わたしたち大人の誰かが示してあげなくてはいけません。狭い世界で息苦しさを感じている子どもに選択肢を与えることは、かつて息苦しさを感じていた大人が、いまも踠きながらも必死で生きている大人が、彼らにできること、すべきことだと思います。
わたしは前述のとおり、まだ暗いところにいて、あまりたくさんのお金は持っていません。あの時終わりにしてしまえば良かったといまも時々思ってしまうけれど、それでもいままで生きてこれたことに、社会の広さを教えてくれた大人たちに、感謝もしています。だから、自分のできる範囲で、ほんの、ほんのすこしだけれど寄付をしました。「救われたかった」という不純な動機がないわけではないから、何にも偉そうなことは言えません。(すこし言ってしまいましたね、ごめんなさい。)それでも彼らにとって、素敵な大人や、かけがえのない仲間に出会うチャンスが増えることは、たとえ人生にはやめに躓いてしまっても、将来に希望が持てることは、とっても大切なことだから書きました。
クラウドファウンディングは目標を達成し終了したのですが、まだまだ直接の寄付は受け付けているようです。
いま、困っているひとはたくさんいます。これを読んでいるあなたも、そうかもしれない。自分が第一です。無理して寄付する必要はありません。でも、もしすこしでも興味を持ってくださったら、余裕があるときに少額でも寄付をしてくださったら、いや、お金でなくても、彼らの存在を認めて「大丈夫、こんな大人もいるよ」「こういう生き方もあるよ」「社会は広いよ」「どこにも馴染めなくても、何かを生み出せなくても、何者にもなれなくても、生きているだけでそれは尊いことだよ」と示してあげる機会に出会ったとき、それをほんの少しでもしてくれたら、頭ごなしに彼らを否定しないであげられたら、彼らも、あの頃のわたしたちも、ほんのすこしだけかもしれないけれど、きっと救われます。
そしてもし寄付をする、したいと思ったとしても、こちらのフリースクールでなくてもいいと思っています。わたしもたまたま見つけて、卒業生のことばにすごく胸を打たれただけなので。あなたのやり方で、あなたのタイミングで、できることを、無理のない範囲で、お互いにしてみませんか?
わたしが苦しかった思春期に、周りの素敵な大人たちは「大人になったらきっと大丈夫になるよ。大人ってとても楽しいよ。」と教えてくれました。不甲斐ないけれど、まだわたしは同じことばをまっすぐに言うことは出来ません。まだまだつらい。苦しいです。でも、あの頃のつらさとは全然違います。とても自由です。胸を張って「しあわせです」と言えるようになったし、楽しいことがたくさんたくさんあります。すごく時間はかかったけれど、自分の意思で、環境も、人間関係も、すべて良いと思ったほうを、楽しいほうを、選べています。
いま、学校や家庭がつらい子がもし読んでいたら、わたしが言えることは何かあるかな、と考えてみました。
ずっと前向きに生きなくたっていいよ。頑張らなくていいわけじゃないけれど、頑張るのは毎日じゃなくていいと思う。ここぞという時のために、充電する期間も必要だと思う。逃げてもいいって言われても、逃げた先に何があるかなんてわからないし、誰も責任なんてとってくれないし、とてもこわいよね。逃げてもいいよ、とも、逃げるな、ともはっきりとは言えないです。わたしはあなたの人生を背負うことはできないから。でも立ち止まっても、後ろを向いても、大丈夫だし、心地よい道を選ぶことは、逃げじゃないのは確かです。
頑張りたい、とあなたが決めたことは全力で頑張ってほしいけれど、理不尽や息苦しさに耐えることはしなくていいです。魚は陸では生きられません。水に住むことが逃げですか?
わたしも何度も死のうとしたことがあるし、わたしの周りにも、何度も死のうとしている子、ほんとうに死んじゃった子、死のうとして一生治らない障害を負った子、いろんな人がいます。(2019年の調査では全体で4人に1人、若年層に限れば3人に2人の割合で本気で自殺を考えたことがあり、10人に1人は自殺未遂の経験があるそうです。しかし自殺の失敗率、こちらは正式に統計を取ることは勿論できませんが一説には9割を超えるだろうと言われています。つまり、生きるのがつらいとか、死にたいって思うこともおかしなことではないし、どうやら楽に死ねる方法は今のところないみたい。それなら、楽に生きられる方法を一緒に探してみませんか?)
世界はあなたが思っているよりもずっとずっと広くて、余裕綽々に見えるあいつだって躓くことはこの先たくさんある。ひとよりはやく躓いたあなたは、きっとひとよりはやくその傷を瘡蓋にして、ちょっとだけ強くなれます。楽しいほうを選ぶ力がつきます。じぶんでじぶんの道を選べるそのときまで、もうすこしだけ生きてみよう。わたしも、そうするね。
わたしも、そうしなくちゃ。もうすこしだけ、生きてみます。明るいほうへ。
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