「北斎の娘」を聴く会 のこと
6月17日に「北斎の娘」を聴く会 へ足を運んだ。「北斎の娘」は落語の演目である。演じたのは気鋭の落語家、林家あんこさん。
※追記:Yahooニュースにも出た!
入口のポスターに「完売御礼」の札があったのは、先日おしらせしたとおりである。場所はすみだトリフォニーホール(小ホール)。
あんこさんの前に出られたのは、前座の林家たたみさんであった。
「北斎の娘」まで
今回の来場者は落語が初めての方が多いということで、あんこさんはまず、落語家のシステム(見習い〜前座〜二ツ目〜真打…)と、自らが務められるすみだ親善大使のお話から入られ、亀戸ぎょうざというパワーワードの余韻さめやらぬところで「つる」を演じられた。
「つる」という落語は、長屋の住人がもの識りのご隠居に、掛け軸に描かれた首の長い鳥、”首長鳥” がなぜ ”つる” という名前なのかをたずねる噺である。
もの識りを自認するご隠居が言うことには……
「もろこしの方から、雄の首長鳥が"つ〜っ"とやってきて、そこの松へぽいっと止まる。次に雌の首長鳥が"る〜っ"とやってきて、松の枝にぽいっと止まる。だから”つ・る”という名前になったというな」
『こりゃいいことを聞いた。誰かに聞かせてやりてぇもんだ』
……さて聞きかじった鶴の語源、知り合いに披露しようとしたところがどうなることやら。
北斎の描いたたくさんの作品のなかには鶴を描いたものがある。それに引っ掛ける演出があり「北斎の娘」への期待がふくらんだ。
そういえば前座の林家たたみさんから聞けたのは金明竹。これは骨董屋の出てくる噺で、出来の悪い丁稚が来客にあべこべな対応をしてしまってその度に叱られるのだが、叱った主人が対応の始末をしようと家を空けたところへ早口の上方言葉で長〜い要件をまくしたてる男が現れて……というもの。
このあとのあんこさんの「つる」〜「北斎の娘」へつながるという趣向だったのか、と後から気づいた。こういう仕掛けがなされるのがおもしろいところ。
さて「北斎の娘」
「北斎の娘」は、北斎の三女である葛飾応為にまつわる新作落語。
応為という名前に反応があれば、その方は絵画がお好きではないかと思う。応為の描いた「吉原格子先之図」という作品がこの落語の大きなポイントとなっている。チラシにもパンフレットにもこの絵の説明がなされている。
ここは遊郭・吉原。明暗のコントラストのなかにたくさんの人が描かれている。
話が走り出すと、この絵はいったいどこで出てくるのだろう、とわくわくする。途中に出てくるエピソードについても、北斎の作品を思い浮かべて、あれかもしれない、これかもしれない、と想像する。話の展開がいつのまにか行ったこともない場所へ連れていってくれて、体験したこともない肌触りの空間へいざなってくれる。そうしている間に休憩の時間となった。あっという間だ。
休憩を挟んで柳家小菊さんの余裕のある三味線に身を任せていると、舟に揺られているような心地になる。自分が「風流」という空気に触れているような気もするし、ちょっと粋な人間になったように錯覚する。
そうしてあんこさんが戻られ「今日は『船徳』をやってもいいんですが、『北斎の娘』を聴く会なので」と。舟でゆらり遊んでいる気持ちをそのままに、こころに江戸の情緒を残して「北斎の娘」の中盤へと続く。
そうして始まった中盤、聴いているそばから噺の世界を一緒に体験しているのだ。応為の結婚生活にヒヤヒヤしたり(これは序盤だけれど)、高井鴻山に招かれた小布施の爽やかな空気を感じたり、北斎が好きだった甘いもので口の中がいっぱいになったり、北斎の住まいを訪れる版元の様子を窺ったり、応為と一緒になって悲しんだり怒ったりした。
なかでも吉原格子先之図が目の前に立ち上がってくるように感じたのは、あんこさんのいきいきとした人物の描写があり、吉原の雰囲気を想像させてくれたからである。彼我を隔てた格子をどんな思いで描いたのだろう、と感じたのは初めてのことだ。
演じ終えられた瞬間、会場は万雷の拍手に包まれた。あんこさんがさっきまでいた余韻がそこにある。かっこいいな、江戸の落語だな、と思った。
風流人の楽しみに触れた、と感じる濃密な時間だった。
今回、落語という話芸から応為の作品に触れる人も多いと思う。落語を起点とした多元的な芸術体験の入口として「北斎の娘」はこれから何度も演じられ、支えられ、もっともっと磨かれていくことと思う。
「北斎の娘」は、いろんなところにぶつかりながらも自分の人生を全力で駆け抜ける人を描いたものだとわたしには思えた。あんこさんはそういう人物像を応為という女性に投影して、ご自身が全力をぶつけるに足る、それを受け止めてくれる相手を見つけた、と感じてらっしゃるのではないかと想像するのである。
当時の吉原において女性がどう扱われていたのか、その雰囲気の一端がわかる落語として、たとえば
文七元結
がある。この噺をきくと当時の吉原という環境、華やかに見える「吉原の格子の先」がどのようなものであったか、想像をふくらませることができるように思う(この噺の要素はそれだけじゃないからまた面白いのだけれど)。
これを挙げたのは、名作だということ、吉原の様子が少しは想像できるだろうということに加えて、下に紹介する文章があったからである。
吉原格子先之図のこと
葛飾応為の作品だと正式に認定されるものは多くないなか、提灯の中に描かれた文字をみることで、応為の作品であることがわかる(上記の動画・リンクより)。
いま見ると単純に「夜の景色を描いたんだな」と思うが、明暗のコントラストをこのように見せる技法は日本で発達したものではなく、西洋絵画の技法から学んだものとされている。当時の先進的な技法を我がものとした応為は、彼女一流の観察眼もあって、光のもつ性質を捉えて夜の一場面を表現しているように見える。格子の内側は明るく、外側は暗い。この絵を見た人はそのコントラストからさまざまな想像をふくらませることができる。
日本における西洋画の技法の習得については、オランダへ留学した平賀源内が1770年代に小田野直武や司馬江漢にその技術を伝えたのが始まりと言われている。吉原格子先之図は少なくともその数十年後に制作されたものである。
西洋画の日本への影響の起点が平賀源内だとしたときに、オランダの巨匠であるレンブラントに行き当たるのは自然なように思える。オランダからは当時、先進国であったイタリアへ留学して絵画技法を学ぶ動きがあった。そのなかにはカラヴァッジオの表現方法を体得するものが相当数あったようだ。応為もまた、明暗対比の技法を創出したのではなく外部から吸収して体得したのであるから、ここの類似性があるうえ、その技術レベルの高さを評して後世の人は応為を「江戸のレンブラント」と言うのだろう。
応為はきっと、カラヴァッジオから続く明暗対比の手法を効果的に使った作品群のことを、画材を扱う商人や絵師のネットワーク、あるいは父の北斎を通じていろいろと聞いていたのだと思うが、自分が江戸のレンブラントと言われていると知ったらどんな顔をするだろうか。なんだか「……所詮ジジィの娘だよ」とか言いそうな気がするけれども。
葛飾応為という人物
あんこさんの落語からいきいきと伝わってきた応為という人物。ほかの資料からも窺い知ることができる。少し抜粋してみよう。
為一とは、北斎が60歳過ぎから使った名前である。応為からすると、自分の腕前はある意味世間が認めている一方で、自分の作品は世に出ていない。社会構造としてそういう”女性のつくったもの”が求められて(認められて)いなかったのかもしれない。もしそうだとすると、彼女の作品が残っているのはすごいことになる。本当のところどうなのだろう。
応為の生きた時代、「女性であること」にも思うところがあったのだろうと想像する。あるいは制度が前提としてあれば、それを当然と受け入れていたのだろうか。
社会的なしがらみを乗り越えて北斎を支え続けた応為は、生活のため稼ぐ面もありつつ、凄腕の絵師と仕事をするという生きがいを感じていたんだろう、とも思える。
葛飾応為についてまとまっている記事があるので、ご興味のある方はどうぞ。
「北斎の娘」に関するnoterさんの反響
当日の様子はこちらからも!
葛飾応為を知るための作品紹介もされてます。わたしも朝井まかてさんの本読もうかなあ。
落語の造詣の深いいぬいゆうたさんの記事はこちらから。
(1)〜(4)まで読み応えたっぷり!
当日お目にかかれた!
豆千さんの洒脱な逸品はこちらから!
わたしも一杯やりたくなりますね。