生きた1日
そういう日がある。
今日は生きた1日だった。
活きたという感覚とは違って。バイクに乗って何百キロも走り続けたあの感覚に近い。五感が開くような感じで本に、装幀に、内容に夢中になる。図書館で。
「これって何?
「あれ? この人知ってる?
「あー、この人こんなに本出してたんか。
「変わった装幀は、あーなるほど! switch !
「あ、この本この出版社から出てたんや。
……。
そうやって、日本文学のあ行の棚から順に
「知らん作家さんいっぱいいてはるわー」
と言いながら、背表紙を見てふらふらと歩く。
目についた本を棚から出しぺらぺらと中身をみて、あーだこーだ。それは今日のためにあらかじめ準備されたプレゼンテーションではないし、何か"有益な"情報のやりとりでもない。
むかし高校生や大学生だったわたしたちが、当時のマクドナルドでフィレオフィッシュをかじりながらあーだこーだ言ってたのと変わらない。
その時間に何の意味があるんですか。
意味なんてないんだよ。ただ自由に考えを広げてそれを言葉にする、伝える、受け取る、反応する、感心する、笑う。そして、言葉にしない自由もある。
そういう時間なのだ。
今日は大阪で文学フリマがあるね、という話から、創作へのスタンス、ものがたりを書くときのイメージの捉え方、日本語の建てつけ、著作権へアプローチして道徳と法律と裁判例との関係をみてから、ものがたりにとってのオリジナリティの解釈へ。
その後、本の背表紙を見ながら、この作家の文体はあーじゃないかこーじゃないか、と話して、場違いな棚に名前がある作家さんの本に目が留まり対談ものだと知って中身をみる。対談で相手の言うことを「そんなことない」と否定できるって仲のいい証拠だねーと聞いて、わたしは「おお、そうか。たしかに」と思っている。
そういえば図書館って美術書もあるよね。
といって、美術書の棚へ。いくつか大判のシリーズものがある中から、なんとなく身近な近現代の美術の一冊を手に取った。ページをめくりながら「あー、いかにも教科書的な感じ。オッケー。なるほどこういう感じね」と言いながら19世紀から20世紀にかけて、キュビズムを通過した現代美術の流れを俯瞰する。いわゆる印象派はシリーズの一冊前で特集されているのだろう。
そうして、情報伝達手段が発達したことによって近現代の美術は枝葉をこれだけ広げるに至ったのか、と再確認した。そこから話は美術から工業デザインの方へ。そうなるとここでまた著作権が顔を出し、工業所有権との境目がどこになるか、という方向へ行きかける。
創作〜文学〜絵画〜法律のあいだを行ったり来たりして、それは広大な地図を俯瞰してあっちこっち気ままに走り回った気分。何度も走って見慣れた道も初めて走る景色も、あっという間に後ろへ流れていって、気づけば五感が外へ開いている。
それはまさに今日1日生きた、という時間だった。
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