『天才を殺す凡人』ギフテッドを思いながら(3)
下記も、ギフテッドを思いながら読んだ箇所だ。
立場が違うと、こういう事が無意識でも起きてしまうのだろう。学校に出向いて話し合いをした時、完全に平行線になってしまったことがある。きっと軸が違っていたのだ。誰も悪くないと言えば悪くない。でも放置してはいけないと思う。
もう一つ、天才は『創造性』の才能、秀才は『再現性(≒論理性)』の才能があるという点についても、2人の意見のうちどちらが良いかを”説明させて”結論を出そうとすると、こちらも必ず秀才が勝ってしまうという。
なぜなら創造性は直接測れない故に、その価値を”説明”するのが難しい。新しく前例がないものほど説明して理解を得るのは難しというのは何となくわかる。それに比べて、秀才は論理的に説明できるし、凡人は共感性=多数決なので「数」で説明できる。こういった説明能力の差がある者同士を同じ土俵で戦わせてはいけないそうだ(同書p.65-75)。
また、どの能力も必要とされるものだが、時代なり、”フェーズ”が変わると必要とされる才能も変わる。よって、物事の発展段階のどのフェーズにあるのかの見極めも重要で、これがズレてもダメなようだ(同書p.218)。この三人が自分の中に同居しているとすると、時に使い分けが必要なのだろう。
ギフテッドに限らず、二十歳過ぎれば只の人になる構造がここにあるのかもしれない。
アンバサダーの重要性
学校教育が「再現性」と「共感性」をベースに学ぶ場であるのなら、ギフテッドは学校に行かせない方が良いかというと、そこは本に出てくる”アンバサダー”の存在の有無が重要になるのだと思う。このアンバサダーとは、二つの才能を掛け合わせた人物だそうだ(下図参考)。
今長男が学校に通えているのは、このアンバサダーがいるからだと思う。「共感の神」か、もうすこしニュートラルではあるけれど、寄り添うスタイルの人が担任でいてくれることが大きい。アンバサダーを見つけることの重要性は、実体験とともに、この本を読んでより鮮明に理解できたと思う。
「天才」「秀才」「凡人」は誰の中にもいるけれど、その割合は人によって違っていて、ギフテッドの場合は「天才」で描かれた特性が強いのだろうと思いながら読んだ。そして長男には改めて、これからも沢山の人、アンバサダーにも会って、成長していってほしい。
支援のあり方
知的な面と、情緒の面を両方同時にケアする必要があると思う。
知的な面は、学校外の専門家と出会えるような仕組みがあると理想だ。これは小学校の先生の守備範囲を遙かに超えていることもあり、先生に変に負担を掛ける必要はないと思う。先生にお願いするとすれば、無理に他の生徒と同じものを強要しない方針を取って頂く方が適切だと考えている。ギフテッドは別途、他のプリントや教材をやるのも良しとすれば、立ち歩き等々も減ってクラス運営上もWin-Winなのではないかと思う。
問題は学校としてこういったことを善しとできるかだと思う。みんな同じ物をやるべきとするのか、足のサイズ25cmの子に20cmの靴は合わないと判断するのかが問われている。
情緒の方は、まずはギフテッドにとってのアンバサダーを増やす取り組みとして、多くの先生がギフテッドを問題児として見てしまっている「色眼鏡」を外すような取り組み、そして置かれた情緒的状況を知って接し方を変えるような取り組みがありがたい。アンバサダー的役割を果たせる人と出会うだけで劇的に変化することを体験している。
別途ウェブで見つけた記事からの引用で、個人的にはギフテッドを連想した部分だ。
下記リンクは、著者である北野さんのブログのようで、高校時代のお話も少し書かれている。