エッセイ : 僕の身の周りの高齢化問題 6 / 子どもは親の面倒を義務では見ない 子どもは親の面倒を見たいと思って見る(自分の子育てが正しかったかどうか分かるのは自分が亡くなる時)
今から8年前、体調不良を訴えた父を病院へ連れて行った。大腸癌が見つかった。5日後、手術が行われ無事成功した。
ところが父は、ステージ3だった。
癌が転移してはいないが、リンパの中に癌細胞が入ってしまっていた。いつ身体の何処かに癌が出来てもおかしくない状態だった。
1か月後の検診で父の膵臓に癌が見つかった。
直径1cmにも満たない小さな癌だったが、膵臓の真ん中を通っている動脈にへばり付くように出来ていた。癌を切り取ると動脈も切れてしまい、父は死んでしまう。病院の先生はこう仰った。
癌が動脈から少しでも離れていれば、こんな小さな癌は問題なく取り除けるのですが、残念です。
お父さんの余命は3ヶ月です。
僕は待合室にいた父に何て言おうかと思った。
父は待合室に来た僕を見て察したみたいだった。
「ユウキ、俺は後どれくらい生きれる?」
「親父···」
「ステージ3だと言われた時から覚悟はしていた。
1ヶ月か? 俺は大丈夫だ。教えてくれ。」
「3ヶ月だ···」
「ユウキ、煙草が吸いてえ。」
大腸癌が見つかった時から父は煙草を吸っていなかった。僕は父が好きなPEACEを一箱買って来た。
父は僕の車のなかで火をつけた。そして、お前も1本吸えと言った。僕もPEACEを1本口にくわえ火をつけた。
「ユウキ、母さんを頼む。」
「親父、お袋のことは心配するな、俺に任せとけ!」
「ありがとう。」
父はそう言うと大粒の涙をこぼした。
僕の目からも涙が溢れていた。
それから3ヶ月目に入り5月の連休明け、父は身体が弱くなり、お腹に水が溜まり始め苦しくなったので入院した。
癌は末期になると黄疸を起こし身体が少しずつ黄色くなっていく。お腹に水が溜まるのは、癌が進行すると、血液中の水分だけが血管から滲み出てお腹に溜まっていく。水分が減ると血液の濃度が高くなり脳溢血を起こす。それを防ぐため点滴で血管に水分を入れる。だが、その水分は血管から滲み出てお腹に溜まる。この悪循環のため腹水炎を起こす。
しかも、血液濃度が高くなるため、毛細血管が破裂し、何処にもぶつけていないのに、身体の至る所に内出血を起こした赤黒い痣ができる。母は父の痣が増えるたびに悲しんでいた。
癌は最後もの凄い痛みに襲われる。モルヒネを打たなくてはならない。モルヒネを打つと意識が朦朧とする。
ところが、父は末期なのに痛みをまるっきり感じていなかった。病院の先生はこう教えてくれた。
癌は背中側に広がると痛くなる。ところが鈴原さんのお父さんはお腹にいっぱい癌が広がっているのに何故か背中側には全然癌が進行していない。
癌は他の部分よりも脂肪の中に急速に広がる。
鈴原さんのお父さんは痩せてはいないが、背中に全然脂肪がない。だからだと思います。
僕は良かったと思った。父が苦しむ姿を見たくなかったからだ。人は太ってはいけないということだ。
父の血圧は少しずつ低下して行った。尿が出なくなったら、亡くなると思ってくださいと言われた。
主治医の先生は後10日から2週間ですと言った。
僕は妻と母と娘たち(2人1組)で24時間交代制で父を看護し続けた。
僕たち家族の合言葉は、おじいちゃんを決して1人で亡くならせてはならない。いつ何があるか分からない、だから、おじいちゃんの側には何時でも家族の誰かが側にいよう、だった。
日曜日、家族全員で父の側にいた。父がビワを食べたいと言ったので、僕が残り、妻と母と娘たちが出かけて行った。すると、父がこう言った。
「ユウキ、俺は、お前たち夫婦がこんなに俺の面倒を見てくれるとは思っていなかったよ。ましてや孫娘たちまで俺の面倒を見てくれるだなんて想像もしてなかったよ。俺は、もう思い残すことはねえ。」
「家族なんだから当たり前だろ。 それより、親父、
さっき先生が言っただろ、癌と最後まで戦ってこそ男だって。」
「わかった。」
しばらくすると、娘たちが、おじいちゃんビワを買って来たよ〜、と言って病室に入って来た。
妻が廊下で手招きをしていた。
「あなたは、今日このまま帰って休んで。」
「どうして?」
「お母さんが教えてくれたの。お父さんは、あなたがいると恥ずかしくて泣けないんだって。」
「そういうことか。わかった。後を頼む。」
帰りに病室を除くと、父は僕の娘たちにビワを食べさせてもらっていた。父は大粒の涙をこぼしていた
僕は家で仮眠を取った後、途中の定食屋で夕食を食べ、夜の8時に家族と交代した。
翌朝の5時に母と交代することになった。
だが、その日の深夜、僕は病院で信じられない光景を見ることになった。
父の病室はがん病棟にあった。だから、毎日のように誰かが亡くなって行った。どうしても、その慌ただしい雰囲気や家族の泣き声が父の病室にも伝わって来た。父にも聞こえているだろうと思った。
深夜の2時少し前、病棟が慌ただしい雰囲気になった。また、誰かが亡くなるかもしれないと思った。
廊下に出ると、2日前に入院したばかりのおばあさんの病室だということが分かった。急に容態が悪化したのだと思った。
病室からおばあさんがナースステーションの隣の
救急救命室に移された。先生はおばあさんの病室から出て来た時、すぐに家族に電話してください、
と言った。
救急救命室では、先生が必死に治療を続けていた。
ところが、30分過ぎても家族の人が来ない。
更に治療が続けられていた。途中で先生が大きな声で、家族の方はまだですか? と言った。
ナースステーションの看護婦さんが電話をして、
早く来てください、と何回も言っていた。
それからまた30分位経っても家族の人は到着しなかった。救急救命室の看護婦さんたちが、おばあさんの名前を呼びながら、頑張ってください、と言い続けていた。
しばらくすると、先生が天井を見上げた。そして、
治療を止めた。看護婦さん達が、おばあさんに付けられていたいろいろな器具を取り始めた。
そして、おばあさんの顔に白い布がかけられた。
先生は、救急救命室から出て来ると、ナースステーションの看護婦さんに、患者の家族の方々は遠くに住んでいるんですか? と言った。1人の看護婦さんが
市内在住の方です。と答えると、先生は怒りの表情を隠すことなく歩いて行った。
僕は父の病室に戻った。父は眠っていた。
すると病棟に誰かが来たのが分かった。廊下に出ると1人の中年の男の人がナースステーションの看護婦さんと話をしていた。
そして、その男の人はこう言った。
あっ、そうですか、亡くなりましたか。
後でまた来ます。
その後、その男の人は携帯を取り出し誰かと話をしながら歩いて行った。
僕は、その光景を茫然として見ていた。関係ない人のことなのに涙が出て来た。
すると、鈴原さん、という声が聞こえた。振り返ると看護婦長さんだった。50代の少し厳しい顔をした女性だったが、微笑むと目尻に少し皺が出来て優しい顔になった。
鈴原さん、私と珈琲を飲みませんか?
看護婦長さんはそう言うと、ナースステーションの隣の看護婦さん達の休憩室に案内してくれた。
そこには、簡易ベッドが2つ、テレビ、冷蔵庫、
電子レンジ、テーブルと背もたれのある椅子が6つ
そして、壁に風景画が飾られていた。
看護婦長さんは、サイフォンで淹れた珈琲を2つ持って来て、1つを僕に渡してくれた。
そして、これから私が話すことをよく聞いて、奥様にも伝えてください。お父さんは、今、容態が安定しています。何かあっても担当のナースがすぐに行きますので大丈夫です。椅子にゆったりと座ってください。お疲れでしょう。と言った。
〈看護婦長さんの話〉
鈴原さん、驚いていますよね。ですが、ああいうことは時々あります。私は何回も経験しています。
誰が1番いけないと思いますか? 不謹慎だとは思いますが、あの亡くなられたおばあさん自身なんですよ。子どもは義務で親の面倒を見ません。子どもは親の面倒を見たくて見ます。親は自分の子どもが好き、子どもも自分の親が好き、ということは非常に大切なことです。例え肉親であっても、嫌いな人の面倒は見ようとは思いません。
鈴原さんのお父さんは、鈴原さんの娘さんたちに慕われていますね。ナースの間でも有名ですよ。皆、
あんなにお孫さんたちに慕われているおじいちゃんは見たことがないと言っています。
鈴原さんご自身も娘たちさんたちに慕われていますね。いいことです。
鈴原さんは娘さんたちに、きちんと面倒を見てもらえますから大丈夫てすよ。見ていてわかります。
それは、鈴原さんが今、自分のお父さんを一生懸命看病しているからなんです。鈴原さんの娘さんたちは、自分の親が亡くなる時は、毎日一生懸命看病しなくていけないというのを、鈴原さん、鈴原さんの奥様、鈴原さんのお母さんを見て学んでいます。
もし鈴原さんがお父さんを何処かの病院に預けっぱなしにして何もしなければ、鈴原さんは将来、自分も娘さんたちに何処かの病院に預けられっぱなしにされてしまいます。
つまり、自分の親の面倒をきちんと見ない人は、
自分も最後、自分の子ども達に面倒を見てもらえないんですよ。わかりますね?
自分の親の面倒を見ることは、そして、その姿を自分の子ども達に見せることは、大切な親の子育てのひとつです。
自分の子育てが正しかったかどうかは、自分が亡くなる時に分かります。自分の子どもが、自分の親の面倒をきちんと見る心の優しい、そして責任感の強い人間に育ったかどうか分かるのです。
結果かどうあれ、その時には、もうどうすることも出来ません。
子育ては、自分が亡くなるまで終わりません。
親は生涯をかけて自分の子どもを育てるのです。
父はそれから約1週間後、危篤状態となった。
父は一度意識を戻した、そしてそこにいた、母と僕と妻と娘たち一人一人にありがとうと言った。
そして、母に手を握られ、そして母を見て嬉しそうに微笑んで目を閉じた。
途中から来た先生が父の脈を取り、そして、
「鈴原さん、お気の毒様です。お父さんは今、
お亡くなりになりました。」
と言った。
母と妻が、お父さ〜ん! と叫んだ。
娘たちが、おじいちゃ〜ん! と叫んだ。
僕は小さく、親父、と呼んだ。
皆一斉に泣き崩れた。
僕は病室の外に出た。そこには、看護婦さんたちが
7人いて、皆、泣いていた。
僕は看護婦さんたちに、ありがとうございました、
と言った。
僕は病院の外にある喫煙コーナーに行った。
父に余命を伝えた時に買った、父の好きだった煙草
PEACEの箱をバッグから取り出し、1本口にくわえ火をつけた。
そして、ゆっくりPEACEの煙を吸って吐いた。
父は最後に大切なことを教えてくれた。
それは、自分が亡くなる時、
自分の人生は充実した人生だった、幸せな人生だったと思えなくてはいけない、ということだ。
父が微笑みながら亡くなったのは、幸せな気持ちだったからだ。
僕は微笑みながら亡くなった父を今も尊敬している
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