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『我が家の新しい読書論』8-3

ESくん
 またDo As Infinityだ.

EMちゃん
 ずっと聴いてるよね。ずっと寝転がって本を読んでもいるし。まぁ、
Do Asは私たちの好みでもあるから聴こえてくるのは構わないんだけど、ち
ょっとは私たちと遊んで欲しいわね。

ESくん
 特に『陽の当たる坂道』と『冒険者たち』と『深い森』でしょ。もうしば
らくは仕方がないよ、しばらくそっとして、あとで温泉にでも連れ出そう。

EMちゃん
 そうね、だからしばらく巣籠りするつもりだったのか、食料と飲み物、そ
れと紀伊国屋書店で大量に本を買い込んでたわね。柳宗悦の『民藝図鑑』、
森茉莉の『貧乏贅沢のお洒落帖』『幸福はただ私の部屋の中だけに』、若松
英輔の『悲しみの秘儀』、片岡一竹の『ゼロから始めるジャック・ラカン』、町田康の『きれぎれ』『記憶の盆踊り』、村上龍の『愛と幻想のファシズム』
等々ね。

ESくん 
 古巣には寄れたんだ。それはそれは、過去と未来へ向かって読書旅行中っ
て感じかな。まあでも、渓太くんらしい選書だし仕事もしていてちょっと安
心したよ。新しいノートも書いてるみたいだし、案外楽しんでるんじゃない。

EMちゃん
 たしかにVR の旅行みたい。逆にお節介で選書をしてあげるとしたら、レ
ベッカ・ソルニットの『迷うことについて』かしらね。

 迷うこと。官能にみちた降伏。抱かれて身を委ねること。世界のなかへ紛れてしまうこと。外側の世界がかすかに消えてしまうほどに、その場にすっかり沈み込んでしまうこと。ベンヤミンの言葉に倣えば、迷う、すなわち自らを見失うことはその場に余すところなくすっかり身を置くことであり、すっかり身を置くということは、すなわち不確実性や謎に留まっていられることだ。そして、人は迷ってしまうのではなく、自ら迷う、自らを見失う。それは意識的な選択、選ばれた降伏であって、地理が可能にするひとつの心の状態なのだ。

レベッカ・ソルニットの『迷うことについて』

ESくん
 ネガティブ・ケイパビリティ(消極的能力)ね。いたずらに事実や合理
を追い求めないで、不確実な状況や謎や疑いのうちに留まっている能力。
あの状態もそういうことなのかもね。

EMちゃん
 そうね、横になって心臓を休めながら、本を多読しているわけだから。

 どんなものかまったくわからないもの。探さねばならないのはたいていそんなものだ。その探求は迷うことに通じている。「失われた」「迷った」(less)という言葉は、古ノルド語で軍隊の解散を意味する言葉(los)に由来している。この由来は隊列を離れて故郷へ向かう兵士を、外との暫時の休戦を思わせる。わたしの気にかかるのは多くの人は自らの軍隊に解散を命じることがまったくない、つまり自らの知ることを越えて出ることがないのではないか、ということだ。広告、喧しいニュース、テクノロジー、休息を知らぬ忙しさ。そうした状況に加担する公私の空間のデザイン。郊外で野生動物がふたたび姿をみせるようになった、という最近目にした記事には、雪の積もった裏庭に動物の足跡はいたるところに残るが、子どもが遊んだ跡はまったくないのだと書かれていた。動物たちからすれば、そうした郊外住宅地は放棄された土地であって気ままに闊歩できるというわけだ。
 そしてきわめて安全な場所であっても子どもたちが自由に出歩くことはほとんどない。身の毛もよだつような事態が降りかかるのではないか、と両親が恐れるがゆえに(その不安はたしかに現実化することがあるが極めて稀だ)、子ども時代に何気なく経験してゆく輝くような体験は失われる。わたしの場合、子ども時代にあてもなく出歩いたことは独り立ちの助けになっていたと思う。方角の感覚を身につけ、冒険を知り、想像力を養い、探求への意思を育て、少しばかり道に迷った後で帰り道をみつけだせるようになった。そうした年代の子どもを家に閉じ込めていると、いったいどうなってしまうのだろう。

レベッカ・ソルニットの『迷うことについて』

ESくん
 最近さ、みんなで議論した「本は不動の二番手」の事をよく考えるん
だよね。読書論を銘打っているけど、自分たちにとっても、本と読書は
決して一番手ではないって結論した話し。

EMちゃん
 あったあった、みんなで何が自分の一番なのか言い合った奴ね。私は
候補があり過ぎて決められなかった(笑)

ESくん
 そうそう、2位は確かに本と読書のような気がするんだけど、1位を
決めるのって難しいよね。現代病かも。でもボクは、ファッションかな。

EMちゃん
 その視点でみるとしたら、渓太くんがいまずっと本を読み続けている
のは1位の席が空いたからと言うこともできるわね。1位がlessになった
から、次の1位を探して本を読んでいる。空になったから、移ろってる。

ESくん
 2位の本と読書はいつでもそばにあるから、1位が空席になっても支
障がでないと。まぁ、ちょっとやつれた気もするけど。じゃあ、ボクも
お節介で、EMちゃんの選書につなげて、馴染みのこの一冊からゆるく。

 私は一見、安定した世界に住んでいる気がする。私は、仕事部屋でホワイトボード、テーブル、椅子、パソコンなどの物体、すなわち安定した自己同一なものに囲まれている。
 だが同時に、私は取り返しのつなかにかたちで世界が絶え間なく変化していることもよく知っている。机の上のグラスを取ろうとして、ふっと手を滑らしたためにグラスは床に落ち粉々に砕けてしまい、その中のビールはすっかり零れてしまった。グラスとその中に入っていたビールという「かたち」は崩れ、もはや私はその破片の集合に「グラス」という意味を付与することはできない。

『不在の哲学』中島義道

EMちゃん
 やられた、引用がうまいわ。コップカップグラスは私たちのシンボル
だし。ちな、ESくんは割れたグラスのイメージ(笑) 続けて。

 私はこれが一度限りの出来事であることを知っている。床に落ち粉々に砕け散った「あのとき」はもう戻ってこない。あれは、この宇宙でたった一度きり起こった出来事なのだ。こうして、私はこの「グラスが砕け散った」と語ることにより、しかも、もし私が同じような失策をするとき、やはり「グラスが砕け散った」と語ることによって、同一の出来事ではなく類似の出来事が反復したとも語るのである。こうして、ある出来事を言語によって表現した瞬間に、それは反復可能な意味構成体という衣を身にまとってしまうのであるが、まさにそのことによって、それは意味構成体としては反復するのだが、その出来事自体は反復しない、という二面を有することになるのである。

『不在の哲学』中島義道

網口渓太
 だから新しいことを始めたくなる。始末、ビギニングとエンディング
はつながっていると。この本ほんといいよね。

ESくん
 おぉ、渓太くんおはよう。そうなのよ、この続きも最高なんだけど、
「言語を習得した有機体S1は世界を言語によって観念化して、いたる
ところに類似の出来事の反復を読み取り」ってフレーズやばくない?

網口渓太
 家の奥に触れられていてヤバいね(笑) 読書を面白がれる人とそうで
ない人の分岐点もこの辺りの解釈の違いにあるんだろうね。

EMちゃん
 ハイ温かい紅茶。やだこのまま読書論の研究会始める? ところで渓
太くんはずっと何のメモをまとめてるの。

網口渓太
 そうだねいい機会だしやろうか。メモはね、松岡さんの講義をまとめ
てる。だからふたりの引用の抜群のタイミングに驚きを隠せない(笑)

ESくん
 30代も賭けるんだね。「思考のプロセスにおいて異端者たれ」か。今日はゆっくりするつもりだったけど、やりますか。おやつ持ってくるわ。

EMちゃん
 講義ってミメーシスのやつ?

網口渓太
 そうそう、網家はこの講義を背景にして生まれているからね。再確認
を込めて。二番目は本と読書、そして一番大事なのはこの家の活動だか
ら。その再確認も込めて。 

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