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『我が家の新しい読書論』1

『我が家の新しい読書論』


網口渓太

 ESくんとEMちゃんが揃ったところで、それでは『我が家の新しい読書論』を始めていきましょうか。読書論といっても、本を何冊も読みこなすための速読術とか、思考を整理するためのアウトプット術とか、何か目的を果たすための手段としての読書ではないです。どちらかといえば読書を遊びとして捉えていて、読書自体が面白い遊びに、もっと言えば「深い遊び」になるような方法って、どういうものがあるのかというところを、たくさんの著者の著書を読みながら、ルールやツールを自分たちで作っていこうという企画です。ふたりともよろしく。

ESくん&EMちゃん
 お願いしまーす。

ESくん
 渓太くん、新しい企画が始まったからか若干緊張してますね。いつも硬めだけど、いつも以上に強張ってるよ(笑)。ちょくちょく話しで聞いていたので、いよいよ始まるのかと思うと楽しみです。
 渓太くんも言ってたように、読書って聞くと勉強っていうイメージがまず頭に浮かぶと思うんですよ。そのイメージは確かに強いんだけど、たとえば哲学者の千葉雅也さんの『勉強の哲学』を1冊読んでみるだけで、その印象は大きくくつがえると思う。「読書は交際」だから、本との出会いも楽しんで頂けたらと思いますね。

EMちゃん
 何回も読みすぎてウチらは『勉哲』って略して呼んじゃってるよね(笑) 我が家ではずっと本と親しくなる遊び方を、あれこれと工夫してきたけど、あらためて自分たちがこれまで工夫してきたことも振り返りながら、これからどんな新しい読書の方法がひらけてくるのか楽しみです。

網口渓太
 自分たち以外の方の目にも触れるからか、ふたり共いつも以上に優等生な感じでありがとう(笑) 立場的にいえば、ふたりが教え子で、ボクが先生のような立ち位置ではあるんですが、まぁそれも年功序列的な感じだね。何かを頭から教えようというよりも、3人のうちの誰でもいいからずっと開かずじまいだった場所の鍵が開いて、それがきっかけで思いもよらず問わず語りが始まってしまうような瞬間を狙って、三個一な感じでやらせてもらえたらいいなと思ってます。10年以上の付き合いなんでね、変に構えすぎず、普段通りやっていきましょう。
 ぼちぼち始めますか。では、「引用」と「表層」は歓迎の網口家ですので、ここにある100冊程の積読本を交わしながら、適当に語らっていきましょう。じゃあ、ボクから封切るね。

 人であるわたしたちはふだん、意識的かそうでないかにかかわらず、無数の可能世界のなかを生きています。わたしたちの生きる現実はその名のとおり現実であり、実体を伴って現れ出たものですが、その現実は、実体を持たない多くの<虚構>と、かつては実体を持たなかった<虚構だったもの>に囲まれています。
 たとえばあなたの目の前にあるディスプレイ、あなたがタイプするキーボード、あなたが読み込む文字列。それらは決して、自然が自然に生み出したものではありません。それらのツール、それらの概念は、人がいなければ、自然の内には決して現象することはなかったはずの人工物です。そして人工物とは、目に見えるものには限りません。
 『システムの科学』や『意思決定の科学』の著者であり、人間の限定合理性と意思決定に関する研究で知られ、ノーベル経済学賞の受賞者でもあるハーバート・サイモンは、人の認知を規定し、行動を促すよう「デザイン」された環境のことを「システム」と呼び、そして、「システム」を構成するあらゆる要素のことを「人工物」と呼びました。そこには椅子や机のような道具のほか、住居や公共施設などの巨大な建造物などが含まれるだけでなく、法や制度といった抽象的な概念の束も含まれます。目に見え
る人工物が、わたしたちの身体の動きを支援し、思考をうながし、行動を方向づけるように、目に見えない人工物もまた、わたしたちの思考や行動を抑制したり促進したりしているのです。わたしたちがそれに対して自覚的か否かは別にして、そうした「システム」としての性質を持つ「人工物」と「人間」の影響関係については、事実として幾多の事例が観測されています。
 わたしたちは多くの人工物に囲まれて生きており、人工物に生きることをうながされながら生きており、人工物を通した認識を持って、新たな人工物を作って生きています。人工物は人によって作り出されたものですが、いまでは人工物が人を作っているといっても過言ではありません。
 わたしたちを取り巻く人工物は、いまでは当然ながら実体を持っており、あなたはそれらに触れ、持って生まれた自分の手足のように取り扱うことができますが、かつてはそうではありませんでした。それらが実体を持つまでは、それらは誰かの頭の中にしかない想像物であって、要するに、現実とは見なされない虚構でした。
 人が生み出すあらゆるものは、現実化する前は虚構であって、それらを生み出したわたしたちの祖先はみな、虚構の中を生きていたのです。

『未来は予測するものではなく創造するものである』樋口恭介

ESくん
 ちょっと引用が長いね。まぁそれは良しとして、樋口恭介さんかぁ、100回が目標の連載で何を企てようとしているのか暗示しているみたいだ。

網口渓太
 少し引用が長かったかな。まあ、雑にキチンとやっていこう。樋口さんはSF作家でありながら、コンサルティングのお仕事もされていて「SFプロトタイピング」という方法を広める活動もされているね。また同じ本の違うページの引用だけど、

 本書では広く、「ここではないどこかの、このわたしではないわたし」を、「科学の方法」の思想によって描いたものをSFとしてとらえます。
 そしてそれは、メリルの言う「思弁小説(スぺキュレイティブ・フィクション)」にほかなりません。
 本書は「未来を拓く思考」を伝えることを目的としており、そして
 Speculative Fiction としてのSFはまさに、現実の自明性を揺るがし、思弁や思索をうながすものであり、それまでとは異なる視点で未来を推論したり投機したりすることをうながし、「ここではないどこか」への想像力を推進するものです。そのため、「思弁小説(スぺキュレイティブ・フィクション)」としてのSFのありかたこそが、本書が標榜する「SF思考」や「SF思考」に基づく「SFプロトタイピング」にふさわしいSFなのです。Speculative であること。「ここではないどこか」を望むこと。本書が前提とし、本書が目的とすることはその一点のみであり、それ以外にはありません。そのように、つねに「オルタナティブ」を思考する/志向する考え方をして、本書では<SF思考>と呼びます。

『未来は予測するものではなく創造するものである』樋口恭介

 「ここではないどこかの、このわたしではないわたし」は、家でよく言う「別」を代弁して下さっているね。説明が分かりやすくて、ありがたい。特にボクが注目したのは、もともと虚構が始まりであるということ。まず虚構、つまりカオスがあると。カオスとは、川の流れとか、雲の動きとか、形や動き方が予測できないおおよそのものです。人間の歴史は、このカオスをどうコスモスに転化してきたのかの軌跡といっても過言ではない。我々はそうやって人工物や道具を作りながら、文明や技術を発展させ、生活の様々な面を進化させてきた。たとえば、インターネットが世界を変えたように。

ESくん
 
重要なポイントなのでカオスについて一点補足させて頂くとすれば、普通はカオスは混乱状態という意味なんだけれど、アトムが全部おなじ方向に向かって落下していくということがカオスなんですね。ディスオーダー(無秩序)ではなく、ウルオーダー(原秩序)に近い。そしてそこを切り裂いて斜めに抜けていく運動が最初のコスモスの生成になる。ここ重要ですよね。

網口渓太
 
エピクロスの原子の偏奇運動とかインドの自然哲学は似たような宇宙観を持っているらしいね。流石は、ハリケーンのESくんだ。さっそく深いね。 
 何で「別」の世界を想像したくなるのかは、一言で言えば、現代社会が窮屈になっているからだよね。本屋の平積みに置かれている本のタイトルを見ていても、「脱」資本主義とか、デジタル「デトックス」とか、引き算の価値観が並んでいる。人間本来の生活ってどんなものだったのか、ますます見えなくなってるんじゃないかな。

EMちゃん

 半農半Xとかミニマリストも現代資本主義社会を利用しつつ、「別」の世界を作ろうとしているのね。ワタシは空が晴れている日に、河川敷の芝生にレジャーシートを敷いて寝転がって、珈琲を飲みながら流れる雲をぼーっと眺めている時間が好きなんだけど、ふとどこかで誰かが労働をしていることを思い出して、こんなにのんびりしていて大丈夫なのかしらワタシも仕事しなくちゃと、せっかくの休みの気分が消えていくことがよくあるわ。これも、現代資本主義社会の影響をしっかりと受けているという証拠なんだね。そうなるまで、自分のなかに潜んでいたことにすら気がつけていないのも、何だか嫌ね。

網口渓太
 本当その通りだね。本来のEMちゃんは河原で寛ごうとしているけど、もうひとりのEMちゃんは、茣蓙のうえで労働に思いを馳せてしまっている。誰もがEMちゃんと同じように、知らぬ間に棲みついた色々なタイプの私を内側に持っていて、その私たちとの対話で葛藤しているはずだよ。もちろん、ボクもそうよ。

ESくん
 小津安二郎とか、ジム・ジャームッシュの映画を観て、ちょっとゆっくりしたくなるね。

網口渓太
 どちらの監督の作品も長回しが特徴の映画だね。いま観ると新しく感じるのかもしれないな。逆にサウンドガンガンで、カット割りが激しい映画は、脳を強制的に興奮状態にさせるから面白いと錯覚してしまうんだろうけど、なんだか、近代社会の兄弟って感じがするな。小津さんたちの映画が一汁一菜なら、後者の映画は焼肉みたいだな(笑) たまに観るのはいいのかも。

EMちゃん
 茶道とか華道とか、俳句とか短歌とか、日本の芸術って日常のなかから生まれている特徴があると思うのね。こう言ってしまったらあれだけど、茶道だってお茶を飲むということを様式化したわけじゃない。だから、ただ本を読むということが、何らかの遊びになればいいなと思ってる。この企画も微力でも足しになるといいわね。

網口渓太
 国内外を問わず、お洒落に本を撮影したり、読書している様子をSNSに挙げていたり、「名刺代わりの10冊」とか、定期的に読書会を主催おられる方もいる。本を使って遊んでいる人がたくさんいるのは知っているから、彼彼女らを含めて読書界に何波もムーブメントが起こると面白いのにね。

ESくん
 まるで、大読書家時代だね。でも『我が家』はボクがあるときに言った、「本って、どこまで読んだら読んだことになるの?」の問いが発端じゃん。そしたら渓太くんが、「分からん」って言って(笑) 100冊の本を100回読み書きすれば、何か分かるかもしんないねって思いつきで始めたわけなんで、100回目にどう感じているのか、本当楽しみだよ。

網口渓太 
 100回目って、何年後になるんだろうね(笑) まぁ、とことん遊びましょうや。では本日はここまで。2回目はさっそく、その100冊のブックリストを公開します。

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