網口渓太
ほな、輪読を始めていくね。今日は前回の続きの177ページから。
どうかな、どっか気になる箇所あった?
ESくん&EMちゃん
ん~……、
EMちゃん
そうねぇ、もっと詰めてみたいのはこの箇所かしら。「未信号状態から信号をとりだし、これをなんらかの符号にして、その符号を読めば元の信号が理解できるようなシステムをつくることが出発点になる」
色々なジャンルの生成過程を理解するのにも応用できそうだから、未信号状態とか、信号とか、符号とか、ちゃんと理解しておきたいわね。ちょっと違う本の一冊のなかから重ねてみるわ。
信号とモード、符号とコードが近しい意味を持っていそうね。情報のらしさ、つまりコードとモードの両方を適切に掴まえることができれば、分厚い辞書が必要なくらい言葉を量産しなくても、6つの点(dot)を並び替えるだけでコミュニケーションを成立させることができると。目に見える6つの点の並びはシンプルだけど、その背景では、言葉とイメージのどちら側にも寄り切らず、むしろそのあいだに潜んでいるあいまいな、でもキラッと光る情報に触れたからこそ始まったって感じが何か、フラジャイルで過激な感じで好きかも。
網口渓太
その背景のあいまいな領域には、国籍や性別や世代をこえて、より多くの人同士が共鳴することができる普遍的な意味やイメージが待機しているんだろうね。点字にかわる何か、作れないか考えたくなるね。ESくんはどう?
ESくん
モードって聞いちゃうとヨウジさんを持ち出したくなるんだけど、あと(→4-1)の中島義道先生の「二次的自己中心化」もコードの理解を助けてくれそうだけど、ボクも早まらずを意識して、まずは一冊重ねてみるよ。
人の能力を頭ごなしに抑圧してしまうのか、はたまた新しい創作や文化の発展のきっかけになるのか。ルールとの付き合い方を考えさせられるね。ちなみにこの続きは「モード」の話しみたい。
まさか、コードとモードを調べてたら「イジメ」の原因ぽいものに出くわすなんて。「ノリ」が合う合わないってたとえ、分かりやすくていいなぁ。この軽さは千葉さん“らしい”ノリよね。
網口渓太
そうね、こうなったら千葉さんの小説の三部作も読まないとね。実は輪読のちょっと先の続きの箇所で、まさに「イジメ」が触れられてあって、流石の勘だなと思ってます。じゃあ、続きを読んでいこう。
網口渓太
信号と記号、signalとsignは、偶然と必然、カオスとコスモス、0と1、ソシュールの記号学ではシニフィエとシニフィアンとも言い替えられてきた現象だね。いや、この説明はとても内容が整理されていてなるほど、分かりやすいな。続けて読みます。
ESくん
うわぁ、「モードは内側にコードをふくみ、外側にメディアの衣装を着る」って言い回し、カッケェ! なるほど、持ち替えとか着替えって言ってるのここから来てんの? コードは持ち替えられるし、メディアも着替えられる。
網口渓太
いいねぇ。さらに言い替えを続けていくと、自分のアタマで考えることになるから、自分の知になっていくはずだよ。自分らしい知でもあるかな。
EMちゃん
それってさぁ、さっきの千葉さんの『勉哲』のなかにも書かれている「アイロニー」と「ユーモア」とも通じる話じゃない。
クラスの人気者といじめられっ子は紙一重の存在なのかもしれないわね。無自覚に場のコードからズレてしまうのか、自覚しながら場のコードを転覆させているのかの差。あ、でも自覚している人よりもさらに自覚している人が加わったら、先にいた人が「やらせ」っぽくなって、いじめの対象になるってのもありそう。ある意味「環境問題」ね、これ(笑)
網口渓太
どんどんメタに成っていくな。家はこの調子がいいから、ふたりとも、このままで。今回はこのくらいにして、次回の(→10-2)は、ノイズとナンセンス、“意味がないことの価値”について読みながら考えていこうか。じゃあ、一休みしよう。キットカット食べる人~。