毎日投稿の悩み―書く技術は向上しているのか
わたしは、今年の4月から毎日書くようになりました。
まるで人が変わったように来る日も来る日も書き続け、今日に至るまで250日と少し、途切れずに書いています。
いつも毎日投稿のハッシュタグをつけて出しているからか、わたしのnoteのページは、「今日のあなたに」の列のすぐ下に、「毎日投稿」に関する記事が並びます。
やっぱり毎日書いていると、同じように毎日書いている人が、書くことについてどんなことを書いているのかが気になります。継続のコツだったり、書く理由や、書く上での悩み。生の情報は貴重です。だから、つい、このカテゴリーの記事を読んでしまいます。
そうすると、それこそ毎日のように、
「毎日投稿を始めます!」
と意気込みに溢れた記事を目にします。そして、それと同じくらいの頻度で、
「毎日投稿をやめることにしました」
と表明する記事にも出会います。読んでみると、その人なりのやめる理由が語られていて、なるほど、と思ったりします。
わかります。始めた当初は、いかに途切れずに継続するかが課題です。でも、一旦リズムが出来上がると、やめどきがわからなくなってくるんですよね。毎日投稿の日数が積みあがっていくにつれ、やめるインパクトが膨らんでいき、この数字をリセットするのがもったいないという気持ちが大きくなっていきます。
数字を積み上げるために書いているのか?違うだろ。
毎日投稿をしている人の大半が、遅かれ早かれ自分に投げかける問いではないでしょうか。
いまのところ、わたしは、数字を積み上げる以外の理由があるのと、単純に毎日書いて出す生活リズムが気に入っているので、このまま継続するつもりでいます。
でも、一つだけ気になっていることがあります。
それは、「いまわたしがやっていることにどれだけの意味があるのか」ということです。
もっと具体的にいうと、
こうやって毎日投稿することで、書く技術は向上しているんだろうか
という疑問です。
少し前に読んだ本に、そのヒントが書いてありました。note界隈でも人気のpatoさんの書籍『文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である』です。
第一章にこんな一節があります。
また、少し先で、こんなことも言っています。
これを読んだとき、わたしはドキっとしました。
あれ、これわたしのこと言ってる……?
書くことが目的になっている文章とは、どういうものだろう。ここで言っているのは、「そこに伝えたいことがないのに」「思いついた文章をポンポンと連ねて」いった文章、と読めます。
著者は、書く筋トレをするなら、「適切な負荷」をかけねば意味がないと続けます。
なるほど。
ただ頭に浮かんだまま言葉を並べるだけではトレーニングにならない。いろいろ考えてそこに一番よくはまると思う文章を、決められた規格の中に収めて書く。そうして初めて鍛えられるっていうことらしい。
わたしの場合、伝えたいことを意識して書いているつもりではありますが、何パターンもの文章を考えて、その中から最適なものを選ぶなんて作業はしていません。「です・ます調」か「である調」のどちらでいくか、くらいしか考えていない気がします。
そもそも100パターンなんて思いつけそうにありません。あ、でもやってもみないうちに「できない」というのは思考停止ですね。後で試しにやってみます。
また、字数については、1500~2000字くらいにまとめようという大まかでゆるい目安はあります。でも、この字数に収めるためにどこかを削らねば、といった作業はしていません。
ただ、書きたくない日にも書くという負荷だけはあります。毎日投稿という自分との約束のために、なんとか絞り出して記事を出さないと、寝てはいけないルールにしているので。
つまり、書き続けているうちに、自分の書きやすいテーマ、書きやすいスタイル、書きやすい分量なんかが定まってきて、それを毎日繰り返しているわけです。patoさんの基準に照らせば、あまり負荷のかからない筋トレをせっせと繰り返しているだけのような気もします。
ひとつ言えることは、どこにゴールを置くかによってやるべきことは変わるということです。書くことで日々を充実させることが目標で、それがいまのやり方で実現しているなら、それでいいのです。
一方で、負荷のかかった筋トレを繰り返して、書く技術を向上させたいという目標なら、今のやり方から少し変えた方がいいのかもしれない。
まだなにをどうするか、結論は出ていません。もう少し考えてみるつもりです。
(おしまい)
読んでくださってありがとうございます。
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