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【孤読、すなわち孤高の読書】吉本隆明『共同幻想論』

虚構が現実を支配するとき、国家は生まれる。

吉本隆明ーーその名は、戦後思想の荒野に聳え立つ孤塔である。
彼は左翼にも右翼にも与せず、独自の論理で国家、宗教、家族を解剖し、それらを「共同幻想」と喝破した。
『共同幻想論』において、国家は人々の無意識が編み上げた虚構にすぎず、それを信じることで初めて現実となるのだと説く。
彼の思想は、戦後日本の知識人たちと激しく交錯し、三島由紀夫、大江健三郎らと論争を繰り広げた。
だが、吉本は徒党を組むことなく、「自立」の思想を貫いた。
その眼差しは、いまなおソーシャルメディアやナショナリズムの渦巻く現代を射抜いている。

[『共同幻想論』とその時代背景、影響]

一冊の書物が時代を規定しうることは稀である。
だが、本書はまさしくそうした希有な著作の一つであった。
それは国家という概念を根底から揺るがし、虚飾を剥ぎ取ることによって、精神の基層に横たわる「幻想」というものを暴き出した。

■時代背景

この書が世に出たのは、1968年、すなわち日本が社会的激動の真っ只中にあった時代であり、まさに私が生まれた年である。
60年安保闘争の熱は消えず、学生運動はその苛烈さを増しつつあった。
戦後の高度経済成長がもたらした物質的繁栄は、皮肉にも人々の精神を飢えさせ、国家とは何か、人間とは何かという根源的問いが、炭火のごとく燻っていた。
思想界に目を向ければ、戦後の知識人たちは依然としてマルクス主義の呪縛から逃れ得ずにいた。
国家とは経済構造の産物であり、支配と被支配の関係に還元されるのだという、単純化された図式が横行していた。
だが吉本隆明は、そうした観念の底を突き破り、国家の成立を「幻想」として捉え直すことを試みたのである。

■『共同幻想論』の内容

吉本は、人間の意識に3つの幻想が絡み合っていることを看破した。
一つは 対幻想 である。
これは、夫と妻、親と子といった関係の中で編まれる幻想であり、家族という制度を根源的に支える。
愛情や血縁といったものもまた、実体ではなく、意識が生み出した幻想の産物にすぎぬ。
次に 共同幻想
これは、国家や宗教、社会制度の基盤をなす幻想であり、人間が共同体を形成する際に避けては通れぬものだ。
王権も法も、「神話」として生み出され、それが人々の意識の中で受け入れられることによって、国家は成立する。
すなわち、国家とは物理的な暴力装置ではなく、集団的幻想の結晶であるというのが、吉本の見抜いた真理であった。
そして最後に 個人幻想
これは人間が個として生きる上で抱く幻想であり、芸術や思想の源泉ともなる。
ここにおいて、国家は必然の産物ではなく、人間の意識の産物として解体される。
支配と被支配の関係は、単なる物質的なものではなく、精神の次元において築かれるものにほかならない。
こうして吉本は、国家を暴力や経済の単純な結果としてではなく、精神の創造物として捉えたのである。

■影響

この思想は、たちまち知識人や学生たちを刺激した。
とりわけ、既存の国家観を否定しようとする新左翼の理論家たちにとって、『共同幻想論』は一つの武器となった。
しかし吉本自身は、当時の学生運動の熱狂を冷ややかに眺めていた。
彼らの革命は、結局のところ、幻想の根幹を揺るがすものではないと見抜いていたのである。
だが、この書の影響は、それだけにとどまらなかった。
後年、ポストモダンの思想家たちは、国家や権力の構造を幻想の観点から分析する手法を発展させた。
柄谷行人浅田彰といった批評家もまた、吉本の思索の影響を受けながら、自らの理論を展開していった。
さらに、文学の分野においても、村上春樹の作品における国家や社会への懐疑的視線の背後には、吉本の思想が響いていると指摘されることがある。
『共同幻想論』は、単なる思想書ではなかった。
それは国家というものの欺瞞を暴き、人間の精神の底にひそむ幻想の構造を明らかにしたのである。
国家とは、神話の変種にすぎず、人間が生み出した夢である。
だが、その夢は、現実よりも強固であり、人間の生を規定し続ける。
幻想の枠組みを見抜くことなくして、人間は決して自由にはなれない。
吉本隆明がその著作で示したのは、そうした冷徹な真理にほかならなかった。

[『共同幻想論』の現代的意義]

吉本隆明の『共同幻想論』は、発表から半世紀以上を経た今もなお、その射程を失っていない。
それどころか、現代社会の混迷の中で、この思想はむしろ新たな光を帯びているようにさえ見える。

■現代における国家の幻想

吉本のいう「共同幻想」とは、国家や社会が人間の意識の中に形成する虚構のことである。
そして、この幻想があるからこそ、人々は国家を現実のものとして受け入れ、そこに従属する。
しかし、今日の国際社会を見渡すとき、この幻想がいかに変容しつつあるかが明白である。
グローバリゼーションの進展により、国家の境界はかつてほど明確ではなくなった。
一方で、ナショナリズムの台頭移民問題は、共同幻想が決して消え去ることのない強固な構造であることを示している。
インターネットやソーシャルメディアは新たな幻想の場を生み出し、陰謀論やフェイクニュースによって「共同幻想」は瞬時に変質する。
国家や民族のアイデンティティが揺らぐ時代だからこそ、吉本の視点は鋭く響くのである。

■デジタル社会における幻想の変容

『共同幻想論』が説いた国家の神話構造は、今日ではソーシャルメディアやマスメディアによって加速されている。
たとえば、国家だけでなく、企業やブランド、あるいは個人のアイデンティティすらも、「幻想」として形成され、消費される時代になった。
インフルエンサーの影響力が国家や企業を凌駕することもあり、幻想の編み直しはますます流動的になっている。
ポスト・トゥルース(脱真実)の時代において、現実よりも「信じられた物語」のほうが力を持つという状況は、吉本の理論を見事に裏付けている。
人々は事実ではなく、物語を求め、幻想の中に生きる。

■日本社会と共同幻想

現代の日本を見れば、吉本の理論がなおも適用可能であることが分かる。
少子高齢化によって従来の「家族」観は揺らぎ、企業と労働者の関係も変容した。
かつての日本社会を支えていた「家族」「会社」「国家」といった共同幻想は崩壊しつつあるが、それに代わる新たな幻想は未だ確立されていない。
また、国家神話としての天皇制も、『共同幻想論』の枠組みの中で捉え直されるべき課題である。
天皇の象徴性が変容する中で、それが国民の共同幻想として機能し続けるのか、それとも変質していくのかという問題は、まさに吉本の理論の延長線上にある。
『共同幻想論』の射程は、単に一時代の社会批評にとどまらない。
それは、社会がいかにして幻想を生み出し、それを現実として受け入れるのかを明らかにすることで、現代社会の本質をも照らし出している。
国家は幻想でありながら、強固な実在として機能する。
そして、その幻想の変容が、社会の未来を決定づける。
吉本の理論は、現代のナショナリズムやポスト・トゥルース時代の情報操作を理解する鍵となる。
『共同幻想論』が今日もなお影響を与え続ける理由は、幻想が消え去ることはなく、それが人間の意識を規定し続けるからにほかならない。

[未来への警告]

『共同幻想論』は、未来に対して鋭い警告を放っている。
それは、人間が社会や国家という「幻想」に支配され続ける限り、自由や真実を追求することは不可能であるという事実に対する警鐘である。
吉本隆明は、社会の構造が「共同幻想」として無意識に作り上げられ、それが現実として受け入れられることによって、個々人の思想や行動は常に外的な力に束縛されると警告している。
現代のグローバル化やソーシャルメディアの普及が進む中で、情報の操作やアイデンティティの形成がますます巧妙になり、「虚構」に対する認識が鈍化している。
吉本が示したように、幻想を見破り、そこから脱却することは容易ではない。
未来において、国家や宗教、メディアが築く新たな幻想が、人々をさらなる閉塞感と束縛へと導く危険性を警告している。
彼の思想は、過去の幻想に対する解体の試みとともに、未来における人々の「自立」の必要性を訴えかけるものだ。
もし私たちがこの警告を無視すれば、再び幻想に支配されることになり、未来の社会はまた同じ過ちを繰り返すのではなかろうか?

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